いわゆるジロンド派の全盛期は短い

1793年1月21日、国王ルイ16世の処刑があり、22日内務大臣ロラン・ド・ラ・プラチエールが辞職した。穀物商業の全面的自由が、ブリッソ、クラヴィエールの派閥とも衝突したからである。つまりこれは、いわゆるジロンド派の内部分裂を現している。
ブリッソ、クラヴィエールは、軍隊に対する食糧調達に際しては自由を優先するわけにはいかないという立場であった。自由主義経済学が現実と衝突した瞬間であった。
次にデュムーリエ将軍の反逆事件が起こった。1793年3月18日、ネールウィンデン(ベルギー領)の敗戦が出発点であった。フランス軍はオーストリア軍に大敗し、敵国軍は国境に近づいてきた。3月29日、国民公会はデユムーリエ将軍の罷免、逮捕を決議した。しかし将軍は逆に、政府から派遣されてきた陸軍大臣と派遣委員を逮捕して、オーストリア側に引き渡した。さらに軍をパリに向けて進軍させる命令を出した。つまり、敵国軍と共同作戦を立て、一緒になってパリを占領しようとした。ここで軍隊が分裂して、将軍に敵対してフランスを守るという将校たちの抵抗にあい、デュムーリエは将軍国外に逃亡した。
何とも奇妙な事件ではあったが、これには、オルレアン公爵の息子ルイ・フィリップと国民公会議員で大貴族のシルリー侯爵も絡んでいて、のちにオルレアン公爵の処刑にまで発展する。
またこの事件で、軍需物資調達に絡む大規模な汚職、収賄、国庫横領が表面化して、大問題になった。これは普通のフランス革命史には出てこない。裏面史、または経済史には出てくる。大軍が動き始めると、軍隊への物資供給が重要になってくる。まして国外への遠征ともなると、あらゆる必需品を軍隊の隅々にまで届ける必要に迫られる。そこで、この仕事を請け負う業者が花形になり、利益がそこに集中する。あらゆる人たちがそこに参入したといわれているが、ベルギー戦線ではデスパニャック僧正という新規参入者がデュムーリエ将軍と組んで、取引を独占した。若い美男子の大貴族であったといわれる。
カトリックの国では、貴族の次男、三男、あるいは長男でも何かの事情で教会に入れられ、聖職者になる。日本でいう、門跡寺院の長になる。こういう人たちは、「えらい」けれども、「坊主の不信心」みたいなところがある。デスパニャック僧正は、それを絵にかいたような人物、すぐに商売人に鞍替えして、デュムーリエ将軍にリベートを出し、適正価格の2,3倍の値段で軍需物資を供給した。
そこで、国民公会の側からすると、国家財政の資金は出したのに、それに見合う物資が下まで届いていないということが判明した。兵士の待遇が悪くなった。これが特に義勇兵の不満に結びつき、帰郷するものが増えた。もともとボランティアであるからそれは当然の事であった。これも敗戦の原因だとされた。このような意見を出したのが、カンボン、ドルニエなどの平原派議員、反対して、汚職はないとしたのがいわゆるジロンド派議員、ダントンはその調査に派遣されたが、汚職はないという立場であった。この段階では、ジロンド派と組んでいた。
このようなことがあって、1793年4月一つの転機が起こった。公安委員会の設立である。後世から、恐怖政治の執行機関とみなされている。国防についての権力を与えられた。のちに大臣を指揮監督する権限を持つに至った。たとえて言うならば、公安委員が大臣で、大臣が次官になるくらいのものであった。しかしよく見ると、今の日本の議院内閣制はそれになっているではないか。とすればさほど驚くべくことではない。
重要なことは、この公安委員会に選出されたものが、いわゆるジロンド派議員には皆無であったことである。これは重要なことであって、これを強調するのは、世界でも私だけだと思ってもらいた。事実を書いた人は少数ながらいる。しかし評価をしない。なぜなら、ジロンド派追放とともにジロンド派権力が消滅したという、従来の理論に縛られているからである。
実際には、4月の時点で、ジロンド派は権力から排除された。ただし、モンタニヤールは権力を握っていない。誰かといえば、平原派しかないだろう。少数ながら、ジロンド派寄りから、平原派あるいはモンタニヤール派に移行した人物がいた。9人中3人がそうであり、ランデ、ダントン、ドラクロアであった。
この段階で、いわゆるジロンド派は権力から離れたといってよい。ただしモンタニヤールもまだだという段階、つまりは平原派の権力ができたといえる。だから、ジロンド派の権力は1792年10月から1793年4月まで、約半年だけであった。

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