いわゆるジロンド派の時代・何をしたか?

1792年9月20日ヴァルミーの会戦で勝った日、国民公会の招集があり、この日から新政権の誕生になる。とはいえ、行政権としての臨時行政会議続いている。形式的には国王ルイ16世によって任命され、国王が投獄されてからは、立法議会の承認によって、仮に認められていたものが、国民公会によって、正式に承認されたことになる。
国民公会の派閥は、いわゆるジロンド派、中間の平原派、左派のモンタニヤール(派)となる。ジロンド派という言葉は当時にはなかった。ブリッソの党派、ロランの党派という言葉で当時は表現されていた。ブリッソはパリ銀行業界の利害を代表し、個人的には銀行家で、財務大臣をしているクラヴィエールと親しかった。ロランはリヨンの絹織物業界の利益代表者であった。
これから約一年間は、モンタニヤールが野党で、その他が与党という色分けで政権が運営される。だからジロンド派政権という言葉は、文学、小説の中ではよいが、科学的には正しくない。正しくは、ブリッソ派、ロラン派、平原派(無党派の集団)と言い換えるべきだ。
この権力、前年からの政争を引き継ぎ、封建貢租の無償廃止を実現した。これで領主権は完全に消滅した。これが重要なことで、今までは、これが一年後に実現したと書いてきたのである。領主権の完全廃止であるが、貴族の直領地は残る。だから、城付きの大土地所有は残るのである。
ただし、亡命貴族については、この城付き大土地所有が、没収売却の対象になった。国有化された後、競売に付された。それを誰かが買う。買った人が新しい城主になり、その周囲の大地主になる。メルラン・ド・チオンヴィルというモンタニヤール議員が、「今朝は鹿狩りをしてきた。君は貴族の土地を持っているか。いいものだぞ」といったが、このような変化をもたらした。
財務大臣クラヴィエールはかねての主張、旧体制のもとでの国庫に対する債権、つまり特権商人グループが、王権に対して高利貸し的な貸し付けをしていた場合、これを切り捨てないで保証すること、これをフイヤン派の政権がが続けていたことへの批判、その批判をいよいよ実行した。10000リーブル以上の債権は切り捨てというものであった。現在なら、一億円以上は切り捨てというものであった。
こうしてブルジョアジーが、前時代への寄生的性格を薄めていった。
内務大臣ロランの主張で穀物商業の自由が実現した。これは、当時盛んになっていた経済的自由主義の思想を実現したものであった。レッセフェール、レッセパッセの主張であり、すでに旧体制のもとで唱えられていた。旧体制のもとではがんじがらめであったから、ブルジョアジーの権力が確立した今、かねての理想、自由主義を実現したのである。自由が旗印であるから、当面はビジネスマン、フランス語ではオム・ダフェールが経営に熱中するだけに時代になった。
もう一つ、国王の裁判があった。国王と王妃が、フランス軍の作戦計画を、敵国オーストリア皇帝に知らせていたことが明るみに出た。これは裏切り行為であるから、死刑か助命かが論点になった。平原派が二つに割れ、小差で死刑になった。この問題では、平原派が分裂した。いわゆるジロンド派でも、死刑論者が出た。

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