いわゆるジロンド派はなぜ追放されたのか

1793年6月2日いわつるジロンド派、当時の言葉でいえばロランの党派とブリッソの党派が追放された。約150人であった。追放とはいっても、殺されたわけではない。大多数は自宅軟禁であった。
なぜこういうことになったのか、この説明が従来のフランス革命史では明らかにされていない。経済のことをよく知らない、文学者的歴史家が書いたから、やむを得ない。
国王ルイ16世の処刑を巡ってだとほのめかした古い歴史家がいるが、これは違う。平原派が二つに割れたからだ。
経済が歴史解釈に入ってくると、最高価格制を巡る論争が激しくなったことがしょうかいされ、これがその原因であるかのように書く歴史観もあった。私も、若いころ、そのように思いこまされていた時期があった。しかし、詳しく調べてみると、追放の直前、ぎりぎりの段階で、いわゆるジロンド派の議員が、やむを得ず受け入れると発言したことを知った。どんなに激しく抵抗しても、多数決を認めたら、追放する必要はない。だから、これも違うのだ。
「たとえ命をとられても賛成できない」、こういう論争点はないか、「命ばかりはお助けを」が通用しない問題点、これは何か、このように考えていくと、簡単に回答が出てくる。命の次に必要なものは、時には命がけで、となると、「お金」が出てくる。つまりお金の問題なのです。
議題は、「10億リーブルの強制公債」といわれ、「累進強制公債」「革命税」とも言われた。公債という言葉を使うが、公債を発行するのではない、公債台帳に登録するだけ、つまりは国家の借金帳簿に書き込むだけのもので、「そんなもの、この非常事態に返してもらえるあてはないよ」というのが、人々の本音であった。だから、だれも登録したがらない。
だから、公債といわれながら、革命税ともいわれたのである。さらなる問題は、これが累進的であったという点にある。これは今日の日本、あるいは先進国では当然と受け止められるが、この当時の世界では、「びっくり仰天するような」話であった。日本でも、戦前の社会で累進税を口にすると、「赤の思想家」といわれるほどのものであった。税金は一律、これが常識であった。
その常識を破って、税率を累進的とし、収入の上限を設定して、それ以上は無条件没収とした。この原則を国民公会が公布し、具体的な適用は、各地方に派遣された派遣委員と地方行政当局に一任した。
5月20日、いわゆるジロンド派の反対を押し切って、この法令が可決された。提案者は財政委員会議長カンボン、これに平原派議員とモンタニヤール議員が賛成した。
さっそく地方で徴収が始まった。リヨンでは派遣委員のデュボワ・ド・クランセが厳格に徴収し、3000万リーブルになった。一人の商人が6万リーブル支払わされたという。(1リーブル約1万円)。5月29日、衝突、内乱となった。マルセイユでも同じことが起きた。
パリにもマルセイユ代表が来て、国民公会で脅迫的な反対演説を行った。10か月前には、マルセイユの若者がパリを守ったという自負もある。しかし、ジャコバンクラブの中には彼らの暗殺を狙っているものもいるというので、ジロンド派議員が彼らを匿い、決定的対立に向かって進んだ。
これが対立の本質であるが、「お金の問題」は表に出しにくい。そこでいわゆるジロンド派議員は、過激派の運動家に攻撃の的を絞り、それをモンタニヤールの議員が応援しているとして、その勢力を削ぎ、平原派を自分のほうに引き付ける作戦に出た。その第一歩として、エベール、ヴァルレという二人の過激派指導者を逮捕した。逮捕する権限は、「12人委員会」というジロンド派系議員の組織するものであった。この時の国民公会は、出席者の変動が大きく、60人程度の議員が派遣委員として前線に出かけていたので、時にジロンド派が採決で有利に立つときがあった。
これが5月20日の事であった。これに対して、抗議運動が起きた。5月27日ロベスピエールがジャコバンクラブで武装蜂起を呼び掛けた。すると、国民公会は、二人の釈放、12人委員会の廃止を決定した。しかし翌日、また12人委員会の復活が決定された。出席者の人数が違うからこうなったのである。
これで、ジャコバンクラブ、パリ・コミューン、モンタニヤール議員、過激派の運動家に危機感が高まり、武装蜂起へと向かった。5月31日、国民公会を包囲し、12人委員会の廃止、ジロンド派議員の追放を要求した。しかし、12人委員会の廃止は決めたが、議員の追放は決まらなかった。翌日の6月1日、再度の武装蜂起が計画された。今度は22人の議員の逮捕の要求が追加された。その筆頭に前内務大臣ロランがあげられ、次に銀行家、財務大臣のクラヴィエールが加えられた。ロランは素早く逃げたが、途中で自殺した。6月2日国民衛兵と武装市民が議事堂を包囲した。
平原派議員の中には、両者の調停をしようとするものもいた。いわゆるジロンド派議員に辞職を進めたものもいる。しかし、議員の職を死守するという。平原派議員には、武装蜂起の指導者を批判するものもいた。バレールやダントンもそうであった。累進強制公債の提案者カンボンもそうであり、このようなことをすれば誰も発言しなくなるといった。採決でジロンド派を押し切ったとしても、追放には反対、これが平原派の考えであった。しかし、結局は群衆に押し切られた。
この時、マルセイユ、リヨンで反乱がおきて、ジャコバンクラブ員が殺され、ブルターニュ、ノルマンデイーというパリに近い州の地方政府が離反し、ヴァンデーの反革命暴動の群衆がナント市に向かっているという報告が来た。もちろん、マルセイユ、リヨンの反乱も起きている。それに加えて、オーストリア、プロイセン、イギリス、スペインの軍隊が四方から押し寄せている。国家滅亡の危機に瀕して、すべての人間が殺気立っていたのである。

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