いわゆるジロンド派議員が追放されても、ジャコバン派独裁は成立しない

ジロンド派の追放がジャコバン派の独裁を実現し、恐怖政治、テルール(フランス語)、(英語でテロ)を実行することになる。これが約150年続いたフランス革命史の定説であった。最後に出てきた、最も科学的歴史観だと、自他ともに称する人たちの意見を紹介しておこう。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。

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