チュイルリー宮殿襲撃事件の真相

1792年8月10日、チュイルリー宮殿襲撃事件が起きた。その結果、王政廃止、共和国宣言、国王夫妻の投獄、立法議会の解散、普通選挙制に基づく国民公会の選出が実現した。
このような劇的な変化が起きるための伏線が、敗戦と領主権無償廃止の政策によるものであることは詳しく述べた。立法議会の右派がフイヤンクラブに支持されて、左派がジャコバンクラブに支持されている。中間派が左右に揺れている。大詰めを迎えた時、だまし討ちのような形で、領主権の無償廃止が可決された。フイヤンクラブは怒った。ラファイエット将軍は前線から離れてパリに帰り、抗議活動を行った。これを反対派は、将軍の戦線離脱だと批判した。確かに、これでは、フランス軍はますます負ける。
他方で、全国から義勇兵が出発していた。マルセイユ連盟兵が中心であった。ヴォロンテールというが、英語ではヴォランティアのことである。若者が武器弾薬を親から買い与えられてきた。貧しい若者は、その地区の献金を受けて、武器、旅費を整えた。義勇兵の実態は、地方ブルジョアジーの私兵、傭兵に相当し、それが首都の防衛にあたることになった。しかし、国王ルイ16世は、義勇兵のパリ駐屯を認めなかった。国民衛兵が反対していた。これは、ラファイエット、フイヤンクラブの影響下にある。立法議会が急遽宿を用意した。
6月13日、国王は左派系の大臣を罷免した。代わって、フイヤン派系の大臣を任命した。話は前後するが、領主権の無償廃止はこの翌日に可決された。
7月6日、プロイセン軍が国境に近づいた。7月10日、フイヤン派の大臣が罷免された。7がつ11日、立法議会が「祖国は危機にあり」という有名な宣言を出した。7月13日、義勇兵の招集が正式に発表され、国王が拒否し、その拒否を無視して議会が呼びかけるという形で、国王の行政権と議会の立法権の対立が激化した。
7月25日前にも書いたが、パリを破壊するという宣言が出された。7月30日までに、義勇兵が集まってきた。しかし国王に拒否され、宿舎はないよという扱いを受けた。8月8日ラファイエット将軍がフイヤン派を代表してパリに帰ってきたことを非難する決議案に対して、最終的に決着がつき、戦線離脱を許すということになった。
これは重大なことで、立法議会もフイヤン派に対する支持者が多数派になったということを意味する。これで、左派、ジャコバンクラブ系は策を失った。行政権も立法権も、フイヤンクラブに握られた。議会の言論で勝つ見込みはない。フイヤン派に従っていて、戦争に勝てるのか。将軍にフイヤン派が多いが、フランス軍が負けてばかりいるので信用ができない。
実はここに今一つ敗戦についての問題があった。王妃マリー・アントアネットが国王から聞いた作戦計画の内容を、スイス経由で、兄のオ-ストリア皇帝に知らせていた。これでは、常に不意打ちとなり、フランス軍は意表を突かれる。こんな戦争で勝てるわけはない。このことはずっと後になってわかるのだが、この時は分からず、これも将軍のせいだと思われていた。
ジャコバンクラブ系の指導者(のちにジロンド派と呼ばれるもの)も意見が分かれて、地方都市に後退して、外国軍との長期戦に持ち込もうというもの、パリに残って徹底抗戦をするというものに分かれた。
この混迷の中で、今まで少数派の扱いを受けていた人物がにわかに浮上してきた。ロベスピエールが武装蜂起を主張した。ダントンが雄弁をふるい、「一にも勇気…」といって、士気を鼓舞した。マラは、コルドリエクラブ(入会金の安い庶民的な団体)を動かして、国王に対する抗議活動に行こうと提案した。パリが破壊されることを恐れた住民の多くがこの運動に合流した。
8月9日の夜パリに警鐘が鳴り響き、群衆が集まってきた。義勇兵とともにチュイルリー宮殿に押し寄せた。宮殿にはスイス人傭兵隊とともに、この服だけを着用した貴族軍人の集団が待ち構えていた。はじめ門を開けて、友好的な態度を示した。距離を縮めた時、一斉射撃があり、400人ばかりが死んだ。これであとは血みどろの戦いとなり、宮殿側は全滅した。現在この場所には庭園があるだけで、建物は残っていない。国王は脱出して議会に保護された。

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