テルミドール以後の政変

ロベスピエール派の消滅は、わずか十人ほどの議員の消滅に過ぎなかった・五百数十人の議員はそのままであった。そこを見ると、大した変化があったわけではないと思われる。しかし議会の外では、激変が起こっていた。ジャコバンクラブの活動家、指導者に対する大弾圧がパリのみならず全国規模で続いた。大量処刑も行われた。ナポレオンも投獄された。入れ替わりに、獄中にいたものが大量に釈放された。
しかしまだ政策は何一つ変わっていない。ヴァントウーズ法の実行を阻止しただけであった。公安委員、保安委員の構成もそのままである。山岳派百数十名の存在も変化はない。ロベスピエール派に代表された小ブルジョアジー・プチブルジョアジーの政治的代表者が粛清されただけであった。だから、最高価格制、累進強制公債のような非常手段は維持されたままであった。
こう思われたのは一瞬で、今までとなしくしていた平原派が動き出した。これに腐敗議員テロリストと呼ばれた新興成金の議員が山岳派から転向して、平原派についた。彼らは極めて戦闘的に振舞った。山岳派について、まだ赤いトサカが残っているいるという。ロベスピールの共犯者とも言った。外国軍はすべて撃退し、ヴァンデー反乱を鎮圧し、軍隊が相次いでパリに帰ってきた。もはやパリの治安をジャコバンクラブに頼る必要はなくなった。公安委員会、保安委員会の改選で山岳派が落選した。財政委員会議長カンボンは平原派であったが、山岳派寄りだとみなされて、何度か命を狙われた。
危機を感じた山岳派は二度にわたる大衆運動を掻き立てて対抗したが、敗北し、議会から姿を消した。それでも約500人の議員が残った。平原派とジロンド派の連立政権、これがフランス革命の落ち着いたところで、それは大ブルジョアジーの政権であった。ここのところを、このようにはっきりと書く人はいない。私が最初だと思ってもらいたい。ここがあいまいだから、市民革命の理論がゆがんでしまい、ひいては明治維新の解釈も歪んでしまう。この最も複雑な変化の時期について、私は心血を注いで研究を続けた。その学術書が、小林良彰著『フランス革命経済史研究』、『フランス革命の経済構造』であった。

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