ヴァルミーの会戦

「この日、この場所から、世界史の新しい時代が始まる」。これが、文豪ゲーテの書き残した言葉である。彼が、革命に賛成の人物であったのではないだけに、この文章には説得力がある。文学者らしい、鋭い観察眼のなせる業であった。
9月20日、ヴァルミーの丘で、両軍が対戦した。プロイセン軍はヴェルダンからさらに進んで、国境から3分の1くらいにまで達していた。ほとんど抵抗を受けずに前進してきた。ここで、プロイセン軍の司令官ブラウンシュヴァイヒ公爵は、奇妙な軍隊を見た。雑然としている。つまり義勇兵であった。ただし指揮官は貴族であった。しかし兵隊がばらばらであった。今日の言葉でいえばボランティアであるから、制服も整えられていないし、見たことも聞いたこともない軍隊ということになる。
当然一押しすれば崩れると思った。また、今までのフランス軍は、抵抗らしい抵抗はしていない。そこで前進命令を出し、いよいよ開戦となったとき、相手が鬨の声を上げて前進してきた。その様子を見て、この相手とぶつかると、血みどろの戦いになると予想した。そこで後退の命令を出した。フランス軍は、これをゆっくりと追撃していった。
この戦争は、こうして国境まで、ほとんど戦闘らしい戦闘をせずに追い出したことになる。それでも世界史的に有名なのは、ゲーテの言葉通りである。ただし、「庶民の軍隊が貴族の軍隊に勝った」という通説を妄信してはいけない。義勇兵はブルジョアの、即席の、その場しのぎの軍隊であった。指揮官には貴族がなった。これは重要で、兵隊には戦闘経験がなかったからである。
勝った理由にはまだ多くの条件がある。将軍の多くが逃亡、亡命し、そのあとを戦う気のある将軍、将校が埋めたことがある。ナポレオン・ボナパルトもこうした条件の下で少しずつ昇進していった。
国王夫妻が投獄され、作戦計画がオーストリア側にもれなくなったこともある。
プロイセン軍の兵士がブドウ畑からブドウをとって食べたため、赤痢がはやり、ゲーテもかかり、戦争どころでなくなったことも響いた。
プロイセンがオーストリアほどこの戦争に熱心ではなかったことも影響している。
このあたりの地形が騎兵軍団の突撃にむいていなかったことも義勇兵にとって有利であった。義勇兵は歩兵中心、。馬術の訓練には時間がかかる。だから、この時両者の軍隊の速度は極めてゆっくりしたものになった。

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