中国国民党と中国共産党の協力と分裂

1927年4月蒋介石は国民党の軍隊を率いて上海を占領した。もともと、彼がビジネスで成功した町であったから、旧知も多い。その最大のものは杜月笙であった。中国通称銀行の実力社長、その他有力企業のオーナー経営者、同時に暴力団チンパン(青幫)の親分でもあり、アヘン売買、賭博経営、闇商売も手掛けていた。
軍閥を追放したのち、こういう勢力が中国の支配者になった。これでブルジョアの支配は実現したから、、中国の市民革命は実現したといえる。
ただ現実はかなり複雑なものになった。北伐とは聞こえは良いが、出来立ての国民党軍隊が、大軍閥の正規軍と戦うのであり、勝ち目はなさそうであった。そこで、孫文が「連ソ容共扶助工農」のスローガンを打ち出し、国民党が攻めるとき、共産党が労働運動、農民運動を起こして、軍閥の背後を脅かすことで勝てる、このような方針を示した。だから、今でも、中国共産党指導者は、「孫文先生」と呼んで尊敬しているのである。
この方針は成功し、一年で中国南部を平定することができた。しかし、同時に、共産党に対する弾圧が始まった年にもなる。中国共産党は、「反帝国主義、反封建主義」を掲げていて、権力をとれば、外国資本を没収し、地主の土地を取り上げて、小作農に分配するという方針を唱えていた。そのため、勝ったところでこれを実行し始めた。これに慌てたのは、外国資本であり、その中心はイギリスとフランスであった。イギリスの砲艦は南京を砲撃した。もう一つの混乱は、地主所有地の問題であり、共産党は土地革命を実行し始めた。地主所有地を没収して小作農に与えるというものであった。しかし、国民党の有力者の中には、すでに金の力で土地を買い集めたものがいる。
こうして、国民党指導者の中に分裂が起きた。蒋介石は右派であり、早くから「容共」には反対であった。そこで、上海で共産党弾圧を始めた。彼と親しい財界人が協力した。これを批判したのは国民党武漢政府であったが、それでも、「労、農運動の行き過ぎが商工業者を引きはなしている」という表現であり、最終的には、共産党弾圧に向かった。
こうして、国民革命は商工業者、ブルジョアジー、実業家集団の権力となり、蒋介石がこれを代表した。その限り、国民革命は中国の市民革命になった。

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