初期明治政府の社会主義的部分

これを見てびっくり仰天する人が多いと思います。その説明を。
第一、幕末、武士階級が領地を所有していました。しかしその所有は集団所有でした。各藩の単位で、領主権は藩主に集中され、藩主から分け与えられる形式で、領主権収入の一部がそれぞれの武士に与えられました。このさらに先をたどると、戦国時代、大、中、小の領主が、それぞれ、領地をもっていました。この個人的領地所有を、藩単位の集団所有に転化したのが、「一国一城令」でした。昔の個人所有の領主たちは、藩のトップである大名に領地をさしだし(悪く言えば取り上げられ)、代わりに、大名の部下、家臣としての職務を務めるという形式で、昔の収入を保証された。
このやり方が、社会主義の統治形態なのです。一度所有権を集中し、恩寵という形で分け与える。そこで、多数いた領主が消滅し、一人の独裁者に代表され、あとは家来として、恩寵を与えられる。だから、「さむらい」という言葉が定着した。「さぶらう」、仕えるという意味です。
廃藩置県で、大名の領地を国家に集中した。討幕戦で手に入れた幕領と合わせ、全国の領主権を天皇に集中した。だからといって、天皇が自由にできるというものではない。その配分方法は官僚たちが決めた。もし、この官僚たちが、旧大名、旗本であったのなら、、「領地所有者の権力集中」だから、「絶対主義」の完成です。この時代でいうならば、ロシア、オーストリア帝国、これらが代表的なものでした。当時の国際情勢からするならば、このコースもあり得ないわけではなかった。
しかし、日本では、官僚たちが、領地所有からはみ出したもの、「取るに足らぬ存在」のものばかりであった。その最たるものは伊藤博文、「武士の下男」、脇差のみで、大刀を持てない。高杉晋作が椅子に座って写真を撮っても、そのそばで片膝ついてかしこまったいる。だからとても長州藩の代表者になることはできない。
こういう人物が、工部省を任されて、「官営模範工場」の建設を推進した。今世界遺産になって人気のある富岡製紙所もその一つ。新事業は、電信、鉄道、郵便、鉱山その他に広がった。旧領地収入の一部がそこにつぎ込まれた。つまりこれは、重要産業の国有化と同じこと、社会主義的工業化であった。
もしこの部分が収益を上げて、財政収入に貢献したならば、国営企業の経営幹部が発言力を持ち、政府を牛耳る。それが進めば、社会主義になる。現実は逆で、赤字続きで、財政の重荷になった。当時は金属貨幣の時代、国際的な決済では、紙幣の出る幕はなかった。つまり、明治14年の時点で、明治政府は行き詰ってしまった。
資本主義的か、社会主義的かを巡る変化の時は、政争を伴う。大隈重信追放、明治14年政変は、その一つでもあった。ただし、どちらかが社会主義的というのではない。どちらも、官営工業の払い下げやむなしと認めたが、「分け前を巡って」相手を攻撃したというものであった。その後、手打ちが行われたころに、三菱も相当なものを手に入れた。そして、財界支配は安定した。

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