十九 二人の銀行家がナポレオン・ボナパルトの政権を作った

ナポレオン3世のことは分かったとして、ボナパルテイズムの名はナポれレオン1世のファーストネームであるから、これを正確に論じなければ説得力がない。少し長くなるので、物語風に書きます。世界で一つしかない正しい説明です。生まれはコルシカ島、昔からのフランス領ではなかったので、のちにルクツーという銀行家が「ナポレオンという軍人に出会った。おそらくイタリア人だろうが、もうこれからは恐怖政治のようなことはしないといっていた」と書き残している。これが重要なキーワードになる。
同じコルシカ島出身でも、コルベール侯爵はコルシカ王の系譜、だからヴェルサイユで優遇され、この一族からルイ14世の財務長官を出した。彼の重商主義は高校の教科書にも載っている。しかしナポレオンは最低クラスの貴族、貴族の称号である「ド」もつかない。つまり「シャルル・ド・ゴール」のように「ド」が付くのが普通の貴族であって、それが無いということは最低の水準になる。当然ヴェルサイユには無縁であるから、国王にも親近感はない。士官学校は卒業した軍隊に入ったが、下士官・伍長で、これ以上上がる望みは旧体制の中ではありえなかった。そこでフランス革命には中立の立場に立ち、1792年8月10日チユイルリー宮殿の襲撃事件の時は、セーヌ河の対岸で見物をして、作戦について評論をしていた。つまり国王が危ないのに、そのために戦おうという気は無かったのである。
翌年1793年イギリス軍がツーロン軍港を占領した。マルセイユも中央政府に反乱をお越した。ナポレオンはフランス軍の下士官としてイギリス相手の戦争に参加した。このとき、全権委員として政府から派遣されてきたのが、バラ、という貴族であった。英語読みでバラスという。子爵だから、中級貴族になるが、財産の相続争いで、不遇な状態であった。家柄は良いから、ヴェルサイユ城には入れた。海軍大臣の頭を本で叩いて、インドへ左遷されたという経歴を持つ。こういう人物は危機の直面すると恐ろしい力を発揮する。さらに彼もこの地方の領主であったから、派遣されたというよりもむしろ、故郷に帰ってきたというのが正し。だから、ツーロン軍港の奪還はバラの功績であった。のちにこれがナポレオンの功績のように言われるが、なんでも歴史の解釈はそうなるものであろう。バラが軍隊を指揮しているとき、下士官のナポレオンを見出した。砲撃の才能があるということだ。これが当時の上流貴族にはなかった。貴族は一般に騎兵としての腕を磨いている。しかしここの戦争は、イギリス海軍相手の砲撃戦であった。弾が当たらないとどうにもならない。バラはナポレオンを引き立てて、砲撃戦の前面に出した。この戦争が終わってみると、ナポレオンは将軍になっていた。その頃、パリでは、ロベスピエールの全盛期、ジャコバンクラブの全盛期を迎え、ナポレオンもそれに賛同するような言動があったので、「ジャコバン将軍」の呼び名が付けられた。それもつかの間、1794年7月ロベスピエールが失脚すると、彼も投獄され、釈放されてでてくると、地位も名誉も失った状態になった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA