国民革命が中国の市民革命になる。

1911年の辛亥革命から、1927年の国民革命までの約15年間は、まだ前近代的社会であった。支配者は地方の大土地所有者、それの代表者が集まって地方的権力を行使した。それをまとめる中央権力はなかった。ただし、イギリス、フランスその他の先進国の資本は、横断的に活躍し、軍閥の枠を超えていた。
1925年、孫文は、革命軍を率いて、広東軍閥を撃破した。こうして、中国全土から見ると小さな地域に市民革命が成功したことになる。しかしこれで喜ぶのはまだ早い。日本でも、ずっと昔、堺に商人支配の国ができた。しかし、内陸の強大な国家、織田信長の領国が成長すると、その圧力でつぶされた。孫文の時は、その逆が起きた。1926年、隣接する大軍閥、呉佩孚を撃破した。これで、歴史的には「北伐」といわれ、国民革命の名称が使われることになる。
国民革命の中心に大商人、実業家がいる。宗一族のことは前に述べた。孔祥熙は商人出身、広東軍閥打倒の先頭に立ち、広東国民政府実業部長になった。宗子文は広東政府財政部長、中央銀行行長、華僑商人の息子、孫文の樹立した中華民国臨時政府の大総統秘書をしていた。蒋介石は実業家陳一族に引き立てられ、上海の証券取引所で仲買人となり、半年で富商となり、孫文の下で広東政府参謀長になった。
このようにみてくると、国民革命が、商人、実業家集団の革命であり、広東の小国家だから広東の商人が推進するものと考えてはいけないことがわかる。上海その他の大都市で成功し、資金を持って広東にやってくるものが指導権を握っている。その限り、国民革命は西洋流に言うならばブルジョアジーの革命であり、ドイツ語でいうならば、ビュルガリッヘ・レヴォルチオンというのことになる。やがてこの勢力が、武漢、南京、上海を占領して、市民革命を全土に広げることになる。

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