宗教と科学の接点

あらゆる宗教が、顕教と密教を含んでいる。

一般大衆の目に触れるものは、顕教部分であります。仏典、聖書、コーラン(クラーン)、その他の宗教でも、教え、説話、教祖の事績、足跡などです。大衆はこれを聞いて信仰を深める。まさかその先があるとはだれも思わない。特に日本人は思わない。なぜなら、「大乗仏教」という思い込みがあるかです。「広く大衆を救う」という趣旨を、子供のころから叩き込まれている。「大衆を救うのであれば、大衆に対して隠すものはないだろう」、こういう思い込みがあるから、秘密のものがあるとは考えもしない。私もそうでした。しかし、念仏秘教、秘密大乗という言葉を知った時、「え!」と思った。しかも、前者は親鸞の息子善鸞が関東で広めたもの、「親鸞と善鸞の対立の要点がよくわからなかったが、これが原因か」と思った。「密教の公開を進める息子と、「それはならぬ」という父親の対立です。これは両者の義絶に発展する。秘密大乗と言う言葉にもびっくりした。「大乗に隠し事があったのか」、こう考えるのはお人よしのすることでしょうか。今までは宗教を本で読んで理解しようとしていた。本質はそうではなくて、隠された部分があり、それを大衆に広めようとすると、親子の断絶にもなりうる、「頭を破裂させる」、「両家の子女と密会をした時のように、絶対に口外してはいけない」、「暗殺団がやってくる」、このような物騒な言葉がこれをめぐって使われている。逆に言えばこの部分が、あらゆる宗教の重要部分を占めているということだ。

顕教部分が特殊性、密教部分が普遍性になる。

顕教と密教が議論になったのは、平安時代です。最澄が顕密二論で両者対等としたのに対して、空海はその上に密教があるとした。空海の甥円珍がのちに比叡山のトップになり、「密教優位」を主張した。この信奉者たちが、のちに比叡山を去って、三井寺を作った。山門、寺門の争いです。次いでながら、この三井寺から天狗が飛来し、禅寺の建設に超人的な力を発揮したというので、今でも小田原の導了尊が信仰の名所になっている。この場合、思想信条よりも、密教から生まれてくる超人的な能力が信仰の対象になる。これが普遍的性格、共通点です。「ではこの共通点を明らかにせよ」、「本にして、公開せよ」、さあこれが難しいものです。

密教部分は公開できない。

公開できないから、密教、秘教、秘密の法、虎の巻、奥義書などと言われる。まず文字にして書かれない。「体をこうしなさい」と書こうとしても、「体の堅い人は無理しなくてもいいですよ。いきなり無理をりをするとこわれますよ。だから、徐々に慣らして、毎日、目標に向かって進む」。とこのように余計なことも丁寧に書かなければならない。それでは文章にならない。一対一の指導ならば、「この人の体はここまで来ている。だから今日はその先の一歩を教える」とこうなる。それならできる。だから密教は、師弟の間の、一対一の相伝になる。これが寺院、神殿の門を閉ざした後、一般人の目に入らないところで行われる。従って、一般人にとっては、「無い」ことになる。しかし実態は「ある」のだ。密教とはこういうもの。

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