略歴

1932生まれ
都立両国高校
東京大学理科入学
同大学文学部西洋史学科
大阪大学大学院経済学研究科修士課程
経済学博士

経歴

香川県立丸亀高校
兵庫県立芦屋高校
同宝塚高校
大阪府立天王寺高校
同三国ケ丘高校
の世界史担当教諭
同志社大学商学部教授 日本大学経済学部教授

退職して15年になりますが、以下の三つのことに関心を持ち続け、ブログで発信しています。

1 囲碁

70歳で4段相当で趣味として再開、現在高段者になりましたので、その経験談を公表します。

囲碁,健康,心得

2 心身の健康

心身の健康について、長年の実践の結果と成功について発表します。
心身の健康についてのブログはこちら

囲碁,健康,心得

ピアノを弾きながら歌う。関心のある方はこちら。

初めてのご挨拶、健康のためピアノを弾きながら歌を歌う
神の御子は今宵しも、ジャニーギター、早春賦、荒城の月
アメイジング・グレイス、べサメ・ムーチョ
菩提樹 Der Lindenbaum(ドイツ語)
菩提樹(日本語歌唱)
サンタ・ルチア、Santa Lucia (イタリア語)
サンタ・ルチア、Santa Lucia (日本語歌唱)

3 歴史理論

近代市民革命の一般理論としてブログに発表しています。
近代市民革命の一般理論についてのブログはこちら

近代市民革命の一般理論

著書と論文

『フランス革命経済誌研究』

ミネルヴァ書房 昭和42年(1967年)

『明治維新の考え方』

三一書房 昭和43年(1968年)

『市民革命』

三一書房 (1968年)

『日本財閥の政策』

千倉書房 (1970年)

『フランス革命の経済構造』

千倉書房 (1972年)、学位論文 (経済学博士)

『西洋経済史』 千倉書房 1973

『昭和経済史』 ソーテック社 1975

『西洋経済史の論争と成果』 三一書房 1976

『フランス革命史入門』 三一書房 1978

『経済史入門』 実教出版社 1979

『近代日本経済の発展』 千倉書房 1987

以上の学問的業績を根拠として、「私には未来に託す夢がある」といいます。それは、いつの日か、以下の学説が認められ、世界中の教科書や概説書にかかれることです。もちろん、日本で認められることは最上のよろこびです。

フランス革命 1789年に始まり1830年に終わる。

日本革命 1868年に始まり1871年におわる。これを明治維新と呼ぶのは国際的な誤解を生じ るので、世界史としては使えないことを自覚す る。

なお、基本的な誤訳、誤解を認めて、訂正する。メイジ・レストレーションという英語は誤訳であること。ヴェルサイユ宮殿はヴェルサイユ城に、ジャパニーズ・サムライはジャパニーズ・ノーブルにしなければ、正しい結論に到達しません。

この日・仏の対比を広げていくと、イギリスはピユーリタン革命から名誉革命となり、、アメリカは独立革命から南北戦争までとなります。

ドイツは三月革命から,ドイツ統一戦争まで、イタリアも統一戦争まで(リソルジメント)となります。奇しくも日本革命の終わりと同じ年です。

これを見て、我が国はフランスに遅れること約40年、ドイツ、イタリア並み、「よくやるよ」という実感にひたることができれば、日本人としては嬉しいのです。

業績書の追加

『明治維新とフランス革命』 三一書房 1988

『高校世界史におけるフランス革命論批判』 三一書房 1989

『経済史総論』 桜門書房 1991 教科書

『経済史としてのフランス革命』 風間書房 1992

『ドイツ市民革命論』 桜門書房 1992 教科書

「高杉晋作」 三一書房 1994

『フランス絶対主義と市民革命』 風間書房 2002

論文(単独)」 と解説

「月形半平太伝説の歴史的意義と高杉晋作」『兵庫県摂丹地区高等学校研究紀要』12号 昭和39年2月 これが私の初めての論文ですが、今となっては釈明の必要があります。まだ20歳台の青年、東大の西洋史出身で日本のことを書こうとする。これでは不信感を持たれます。さらに、高杉晋作が開国を考えていたと書くつもりですから、当時の常識に逆らうことになります。そこで当時人気のあった架空の人物を、話しの糸口に持ってきたのです。私の大きな構想としては、尊王攘夷から抜け出して開国討幕に舵を切り、商人層を提携して、統一国家を作る、こうした方向の先覚者として、高杉晋作が位置付けられるというものでした。それを延長すると、フランス革命と同じ性格が指摘できるというもので、今の私があるのですが、そのような大風呂敷を広げては誰にも相手にされないから、まずは、「月形」から始めようかというものでした。

もう一つ、論文としては初めてですが、活字にしたものとしては二つ目で、経験者ということになります。当時、志のある青年にとって、自分の意見を活字にするというのは、夢のまた夢でした。最初に打って出るのが難しい。私は、人の名前で出しました。窪田博行 『日本の資本家』新興出版というものです。当時、まだ言論の自由はあるようでない状態です。おそらく本名で出すと、失職したでしょう。こうした事情のため、リストに入れていません。

「フランス革命における封建的土地所有の廃止に関する誤解とその批判」『兵庫県立宝塚高等学校研究紀要』一巻 昭和39年 これは学会からは離れたところの論文集ですが、かねて懸案の、土地革命論を、フランス革命の事実に基づいて、正確に再検討するものでした。フランス革命では、いわゆる土地革命はなかった、これが結論です。

「勤王派は内部における攘夷思想と開国思想の対立」『兵庫県摂丹地区高等学校研究紀要』十三号 昭和40年2月 これは当時当たり前とされていた、尊王攘夷対開国佐幕の対立が進んで明治維新になったという学説に対して異議を唱え、尊王攘夷の運動の中に、攘夷は無理、開国はやむなしとする一団の志士がいたことを証明したものです。

ここまでが、私の「在野の研究者」としての発表です。かねてから、「ダンテは在野であるが、ダンテを研究して、大学教授になる人はいる」というのが、私の周辺の若者に多かったのです。つまりは、「大学教授になると、俗物になって、よくない」というものでした。そういう志の高い方向で行こうとしていたのですが、この後「はた」と躓きました。「発表手段がない」、「フランス語の原書が手に入らない」というものです。ここで大学の世界に戻ろうかと考え始めたのです。次の論文からは、大学のものになります。

研究業績一覧

論文(単独)

  • 「上層ブルジョアとフランス革命-ペリエの場合」『西洋史学』72号 昭和42年1月
  • 「テルールの諸問題とその明治維新史に対して持つ意義」『商品流通の史的研究』ミネルヴァ書房 昭和42年3月
  • 「フランス革命と明治維新の対比における土地革命論の再検討」『社会経済史学』33巻1号 昭和42年4月
  • 「フランス革命におけるオート・ブルジョアジーの連続性-ペリエの場合」『ヒストリア』48号 昭和42年5月
  • 「フランス絶対王制における領地所有の実態」『同志社商学』20巻1・2号 昭和42年7月
  • 「フランス革命における貴族土地所有の残存」『同志社商学』20周年号 昭和43年12月
  • 「フランスにおけるインド会社の成立と清算」『同志社商学』20巻3・4号 昭和44年2月
  • 「フランス革命と大商人-ボスカリ家の場合-」『同志社商学』21巻1号 昭和44年6月
  • 「フランス銀行の起源」『同志社商学』21巻2号 昭和44年9月
  • 「フランス革命の経済政策-1793年-」『同志社商学』21巻4号 昭和45年2月
  • 「吉田松陰」『維新変革の理論』芳賀書店 昭和45年2月
  • 「坂本竜馬」『維新変革の理論』芳賀書店 昭和45年2月
  • 「フランス革命の経済政策-恐怖政治の後期-1-」『同志社商学』21巻5・6号 昭和45年3月
  • 「フランス革命の経済政策―恐怖政治の後期―2-」『同志社商学』22巻1号 昭和45年7月
  • 「バスチーユ襲撃の経済的原因」『同志社商学』22巻2号 昭和45年9月
  • 「ヴァンデー反乱の経済的原因」『同志社商学』22巻3号 昭和45年12月
  • 「フランス絶対主義における貴族と僧侶―1―」『同志社商学』22巻4号 昭和46年1月
  • 「フランス絶対主義における貴族と僧侶―2―」『同志社商学』23巻1号 昭和46年7月
  • 「フランス経営史におけるベルトラン・ジル氏の業績」『同志社商学』24巻2号 昭和47年9月
  • 「フランスにおけるイギリス式鉄鋼業の導入―フルシャンボーの場合」『同志社商学』25巻3号 昭和48年12月
  • 「戦後日本経済の混乱と改革」『同志社商学』25巻4・5号 昭和49年3月
  • 「戦後日本のインフレと改革」『同志社商学』26巻4号 昭和50年3月
  • 「アジア的生産様式をめぐる論争」『同志社商学』27巻3号 昭和50年12月
  • 「昭和初期の政争と重化学工業」『近代経済の歴史的基盤』ミネルヴァ書房 昭和52年
  • 「アンザン炭鉱会社とフランス革命」『同志社商学』29巻4・5・6号 昭和53年3月
  • 「フランス革命におけるバッツ男爵とブノワ」『同志社商学』30巻1号 昭和53年7月
  • 「マチエ著『フランス大革命』に含まれる理論的混乱について―1―」『同志社商学』30巻2号 昭和53年9号
  • 「マチエ著『フランス大革命』に含まれる理論的混乱について―2―」『同志社商学』30巻3号 昭和53年2号
  • 「マチエ著『フランス大革命』に含まれる理論的混乱について―3―」『同志社商学』30巻4号 昭和54年2月
  • 「フランス革命における平原派指導者-カンボンの場合」『同志社商学』30巻5・6号 昭和54年3月
  • 「フランス革命における恐怖政治の財政指導者―カンボン―」『同志社商学』31巻1号 昭和54年5月
  • 「Comparative Study of the French Revolution and the Meiji Restoration in Japan」『同志社商学』31巻3号 昭和54年9号
  • 「フランス帝国主義」『講座西洋経済史―3―』同文館 昭和55年
  • 「現代フランスにおける貴族階級の残存」『同志社商学』33巻3・4号 昭和56年12月
  • 「ソブール著『フランス革命』に含まれる理論的混乱について―1―」『同志社商学』34巻1号 昭和57年7月
  • 「ソブール著『フランス革命』に含まれる理論的混乱について―2―」『同志社商学』34巻6号 昭和58年3月
  • 「ソブール著『フランス革命』に含まれる理論的混乱について―3―」『同志社商学』37巻1号 昭和60年5月
  • 「ソブール著『フランス革命』に含まれる理論的混乱について―4―」『同志社商学』37巻3号 昭和60年10月
  • 「ソブール著『フランス革命』に含まれる理論的混乱について―5―」『同志社商学』37巻4号 昭和61年3月
  • 「ソブール著『フランス革命』に含まれる理論的混乱について-6-」『同志社商学』38巻1号 昭和61年6月
  • 「フランスにおけるロートシルド銀行と系列会社-1-」『同志社商学』36巻4号 昭和59年12月
  • 「フランスにおけるロートシルド銀行と系列会社-2-」『同志社商学』36巻5号 昭和60年1月
  • 「フランス鉄鋼王ヴァンデルと明治維新の解釈」『経済史経営史論集』大阪経済大学日本経済史研究所 昭和59年12月
  • 「教科書におけるフランス革命論の誤り(1)『詳説世界史』山川出版社の場合-1-」『同志社商学』38巻3号 昭和61年10月
  • 「教科書におけるフランス革命論の誤り(1)『詳説世界史』山川出版社の場合-2-」『同志社商学』38巻4号 昭和61年12月
  • 「教科書におけるフランス革命論の誤り(1)『詳説世界史』山川出版社の場合-3-」『同志社商学』38巻5号 昭和62年2月
  • 「教科書におけるフランス革命論の誤り(1)『詳説世界史』山川出版社の場合-4-」『同志社商学』38巻6号 昭和62年3月
  • 「教科書におけるフランス革命論の誤り(2)『世界史』山川出版社の場合-1-」『同志社商学』39巻1号 昭和62年7月
  • 「教科書におけるフランス革命論の誤り(2)『世界史』山川出版社の場合-2-」『同志社商学』39巻4号 昭和62年11月
  • 「教科書におけるフランス革命論の誤り(3)『世界の歴史』山川出版社の場合」『同志社商学』39巻5号 昭和63年1月
  • 「教科書におけるフランス革命論の誤り(4)『高等世界史』帝国書院の場合」『同志社商学』40巻1号 昭和63年7月
  • 「教科書におけるフランス革命論の誤り(5)『改訂世界史』東京書籍の場合」『同志社商学』40巻2号 昭和63年8月
  • 「教科書におけるフランス革命論の誤り(6)『世界史』実教出版社と『新世界史』第1学習社の場合」『同志社商学』40巻3号 昭和63年10月
  • 「教科書におけるフランス革命論の誤り(7)『高校世界史』3省堂の場合」『同志社商学』40巻6号 平成元年3月
  • 「フランスにおける貴族財産の連続性」『同志社商学』39巻2・3号 昭和62年8月
  • 「ロベスピエールとテルミドール反動」『フランス革命とナポレオン』人物往来社 平成元年7月
  • 「総裁政府とバブーフの反乱」『フランス革命とナポレオン』人物往来社 平成元年7月
  • 「ラファイエット侯爵とフランス革命」『同志社商学』41巻3号 平成元年12月
  • 「ドイツにおける市民革命の時点-1-学説史の整理」『同志社商学』41巻1号 平成元年6月
  • 「ドイツにおける市民革命の時点-2-フランス革命とドイツ3月革命」『同志社商学』41巻2号 平成元年9月
  • 「ドイツにおける市民革命の時点-3-ドイツ3月革命における基本的対立」『同志社商学』41巻5号 平成2年2月
  • 「ドイツにおける市民革命の時点-4-ビスマルク登場の背景」『同志社商学』41巻6号 平成2年3月
  • 「ドイツにおける市民革命の時点-5-ビスマルクはユンカーの代表者であるかどうか」『同志社商学』42巻1号 平成2年7月
  • 「ドイツにおける市民革命の時点-6-ビスマルクの支持者」『同志社商学』42巻2号 平成2年9月
  • 「ドイツにおける市民革命の時点-7-市民革命の完成としてのドイツ統1戦争」『同志社商学』42巻3号 平成2年12月
  • 「Common Features in the Meiji Restoration and the French Revolution」『経済集志』62巻2号 平成4年7月
  • 「フランス絶対主義における高等法院貴族」『経済集志』62巻4号 平成5年1月
  • 「フランス絶対主義における法服貴族の役割」『経済集志』63巻4号 平成6年1月
  • 「フランス革命前夜の財政問題」『経済集志』64巻1号 平成6年4月
  • 「フランス革命における土地改革」『経済集志』64巻3号 平成6年10月
  • 「フランスの工業化とイギリス」『世界経済史』ミネルヴァ書房 平成9年
  • 「フランス革命期における銀行家」『経済集志』69巻3号 平成11年10月
  • 「市民革命の一般理論」『経済集志』70巻3号 平成12年11月
  • 「市民革命としての明治維新」『経済集志』71巻3号 平成13年10月
  • 「フランス革命におけるロベスピエールの経済政策」『経済集志』71巻4号 平成14年1月

学会発表 単独

  • フランス革命の結果 社会経済史学会大会 昭和60年9月25日
  • フランス革命と明治維新の共通点 社会経済史学会大会 昭和61年9月20日
  • ドイツにおける市民革命の時点 社会経済史学会大会 昭和62年5月23日
  • アメリカ独立革命とフランス革命の共通点 社会経済史学会大会 昭和63年9月20日
  • イギリス革命とフランス革命の共通点 社会経済史学会大会 平成元年6月3日

資料 単独

  • 「フランスの農業と3圃制度」『同志社商学』32巻3号 昭和55年12月
  • 「ヨーロッパの農業と3圃制度-1-」『同志社商学』昭和57年3月
  • 「ヨーロッパの農業と3圃制度-2-」『同志社商学』昭和57年9月

ここで、別な研究テーマについて、お知らせします。なぜなら、私の書いた本が、同名同姓の別人のサイトに載せられていたからです。これは早く訂正しておかなければという思いでここに紹介しておきます。

『空海とヨガ密教』 学習研究社 2007年

私が退職してから書き始め、70代で出版しました。専門外であるのになぜという質問がよせられそうです。実はこのテーマは私の20歳後半に着想を得たもので、日本にただ一人の縁を持つものとしてでした。空海、弘法大師、「お大師さん」に対する縁です。まあ、お大師さんの入り婿になった感じです。そこの事情も本の中で書いています。特に、母方の縁で、阿刀玉依姫の像のそばで数年間寝てきました。空海の母で、久度山に住んだ女性です。

そのころから、これは本にしなければならないだろうと思いつつ、退職までは資料を集めるだけにとどめていたものです。一口で言うと、母系空海論で、母方の阿刀氏の役割が大きいと書いています。高野忍者の原型もここにあるといいたいのです。できるだけ科学的に論じようとしています。ここには私の専門分野、社会科学、経済史との接点があります。東寺建設、高野山開拓、整備、維持、管理、こういうことを空海一人の手で成し遂げることはできません。まして、彼は、様々な使命を与えられて、高野山を留守にしていました。その時、だれが高野山を守るかです。つまりは、高野山は空海個人の仕事ではないということになります。では誰のものか、というと、そこには母方のいとこが出てきます。これもまた一人ではなく、大集団の代表者です。その近くで、久度山の阿刀玉依・空海の母が来て済んだ。

ここで空海の密教と阿刀の大集団との関係が出てきます。密教は空海が仏教経典の最上階に置いたもの、しかしそれは何かというと、秘密だから教えられないとなります。それでは困る、なんとかして知りたい。その内容がわかるものが高野山にあるらしい。それなら夜陰に乗じて盗み出しに行こう、こういう不届きな人間どもを撃退しなければならない。その任務を果たすとなると、どういう能力が必要になってくるか、それは戦士としての能力と、忍者としての能力を兼ね備えたものになる必要があります。その忍者の能力の部分を養成するのが、密教の修行と一致するのです。俗人として修業するから菩薩の行です。俗人ですから、結婚もできる。つまり男女に関する規制からは解放されている。こういう集団が守っているのですが、こちらは相続ができるから、集団として大発展します。そのうち、名前を中橋と変えて、わけが分からなくしてしまった。

密教とは何か。これほど難しい問題はありません。例えば、頭面接足礼、般若波羅蜜多の行、愛縛静静句是菩薩位、などは密教用語ですが、これが何を意味するかは、説明を受けなければわかりません。何か説明を書いたものはないか。こういうことで、空海と最澄の対立も起きました。といっても何を言っているかわからないでしょう。しかし現代でも、この程度の暗示しか言えない、これが密教の本質のようです。この問題で、空海だけが他の僧侶よりはずば抜けた境地に達したと考えられます。この点は、彼個人の業績でしょう。続きは、冒頭のライブドアブログに移します。

体操で豊かな老後を 、小林良彰、

こういう題で、ユーチューブに動画をアップロードします。(2019年2月から)。87歳になります。かねてからこの年を気にしていました。知り合いの年長者の多くが、88歳で亡くなっています。「はちはちは危ない、自分はこれを乗り越えられるかな」、こういう思いです。他方で、迫りくる老化を敵とみなして、戦いたい。そのための最大の課題はたいそうではないか。7年前「不老長寿の体操と食事」という本を出版しました。あの時は、これから実行するであろうことを、宣言し、証明するつもりでした。今は、大筋で正しかったと思っています。最近、ある出版社から再販をしないかという誘いがありました。本の内容が、今でも価値を失わないので、再出版はどうかというのです。

しかし私は、ユーチューブで最後の努力をしてみようかと思いました。始めるとすぐに、書いたもので補充をする必要を感じました。それなら、ホームページで書くか。こうして、動画を意識しながら、以下の文章を書いていきます。

「おのれこそ己の寄る辺」,発句経の有名な言葉です。仏典の中でも特に古いもので、お釈迦様の本心がじかに聞かれるものではないかと思われます。これは読んで字のごとし、説明の必要はありません。続く「よく調練された」という言葉が重要です。いったい何をすればよいのか、それは何とも云っていません。ある武道の団体は、これを題目にしています。それなら、老後を迎えたものでも、武道をしなければならないか。そうではないでしょう。

続く釈迦の言葉があります。前の2行は同じで、続いて「商人が馬を馬車につなぐように、心を体につなぐべし」というものです。商人が馬を馬車にとは何か。この商人は、日本の商人ではありません。インドの大地ジャングルを馬車に貴重品を積んで疾走する、冒険商人、盗賊、猛獣と戦う、戦士の商人です。馬と馬車が一体とならなければ成功はおぼつかない。こういう商人の一人、スダッタ長者が釈迦に「祇園精舎」と呼ばれた土地を寄進した。ついでながら、その「つなぐ」という意味が、インドの「ヨーガ」という発音になります。そうすると、ヨーガをすることで、心と体をつなげるべしとなります。これなら、老後の目標になりうる。

「専気、致柔、よく幼児たらん」これは老子の言葉です。老子は神仙思想の祖、仙人の道の神様です。呼吸法に熟練し、柔軟性を高めて、幼児のような柔らかさを身に着けるという意味です。柔軟性を獲得するには、呼吸法と取門しなければならない。静かに息を吐き続けて体を曲げていくと、達成度は高まります。「ストレッチは呼吸法とともに」、現代流に言いますとこうなります。これで自分の体を整え、「赤ちゃんのように」柔軟になる。これを目標にする。老後の目標は上記三つに要約されます。

ネット上の市民革命の定義が間違っている・前近代社会

ネットで市民革命を検索してみると、間違った説明が多いことに気が付きます。その説明を。

「市民革命、またはブルジョワ革命、資本主義革命、民主主義革命とは、封建的、絶対主義的国家体制を解体して、近代社会(市民社会、資本主義社会)をめざす革命を指す歴史用語である」。

これでよいのか。そうではない。すぐ近くに、「イギリス革命、アメリカ独立革命、フランス革命など」と実例が書いてある。この二つの文章は一致しますか?アメリカ独立革命以前の、アメリカ植民地に、封建的、絶対主義的国家体制がありましたか。そんなものはなかった。それなら、独立とともに、何を解体したのか。もっと別なものでしょう。これを定義しなければならない。世界中の学者が、寄ってたかって、こんなこともわからないようでは困る。

ネット上の市民革命の定義が間違っている・産業資本について

次に「新興の産業資本家を主体とする市民階級が、封建権力や絶対主義権力を倒し、国家権力を掌握する政治変革のこと」、「産業資本家を中心とする市民佳階級が封建性を打破して」、「ブルジョアジー(市民階級)が階級支配を確立する革命であり、市民階級の経済的基礎である近代産業資本を確立するための闘争」と、三つも「産業資本」を強調している。これもでたらめであり、イギリス革命、アメリカ独立革命の時、そのようなものはあったかな?

産業資本はまだ小規模で、手工業の親方、または良くて、小工場の工場主でしかなかった。とても全国の権力を組織する力はなかった。、これも間違いです。こういうと、反論する側は、イギリスには一部王立マニュファクチュアがあったというのですが、これは革命の側ではなくて、打倒するべき側のものだといいます。これが革命を推進したとは、彼らは言わないので、、いずれにしても、産業資本が市民革命を推進したというのは間違いです。

市民革命の正しい定義

市民革命の定義で間違っている部分を訂正します。「封建的、絶対主義的国家体制を解体し」という部分、これを「大土地所有者の組織する国家体制を解体し」と言い換えます。古代から市民革命に至る長い間、権力は土地所有の上に成り立っていた。土地所有の仕方はいろいろある。完全な個人所有、集団所有、領地所有(上級土地所有権と下級土地所有権の分離)など、これは相違点だ。相違点はさておき、ここに書いた共通点をイギリス、アメリカ、フランスに適用すると、反論の余地なく一致する。

次に、「産業資本」という部分を「商業資本」と言い換える。その商業資本という言葉に「大商人、貿易商人、銀行家、金融業者」という言葉を含める。そうすると、事実と一致する。その実例をいえといわれればいくらでもいえる。別のブログ(近代市民革命の一般理論・ブロガー)で紹介しています。参照してください。

これらが正しい定義で、この定義を当てはめるだけで、歴史解釈は劇的に変化します。そして正しい。

市民革命の定義が間違っている・その3法の支配

市民革命を法律上の革命にしてしまおうという理論もあります。「国王も法に従わせる法の支配を確立し」という文章です。フランス絶対主義のルイ14世が残した言葉「朕は国家なり」を知っている人にとっては、「ふむ、ふむ」ということになるでしょう。しかし「どの国王が法に従ったの」と聞かれて、自信をもって答えられますか。イギリス革命のチャールズ1世は最後まで戦って処刑された。フランス革命のルイ16世は、革命にしたがうふりをして、裏では転覆を企てた。それが発覚して、処刑され、王妃マリー・アントワネットも処刑された。つまり、従った国王はいなかった。フランス7月革命では、シャルル10世が逃亡し、そのあと、ルイ・フィリップが国王に即位した。つまり、法の支配に従うという人物を国王にに迎えたのである。

ネット上の市民革命の定義が間違っている・その4民主主義の実現

「民主主義に基づく近代社会を」という言葉もあります。この種の定義は非常に多い。「立憲主義」、「ブルジョワ民主主義革命」などです。これがなぜ間違っているか。イギリス革命のクロムウエル、フランス革命のナポレオン・ボナパルトはご存知でしょう。両者ともに最も華やかな時の人です。しかし、この二人は、立憲主義、民主主義を否定して、独裁権を固めて人たちでした。議会の上院も下院も廃止してしまいました。クロムウエルは「ロード・プロテクター」と名乗りました。彼が死ぬと、息子が後を継ぎました。実質世襲です。(すぐにひっくり返されましたが)ナポレオンは三頭政治の形式で、個人の独裁を回避しましたが、立憲主義、民主主義はつぶしました。これでも市民革命後の社会です。誰も、これを反革命だとは言いません。クロムウエルの死、ナポレオンの失脚で、両国ともに王制が復活した。これを王制復古、レストレーションという。この体制をひっくり返して、やっと市民革命が確立する。だから、市民革命は独裁政権をもたらすこともあります。これは、日本の歴史を論じるときに重要です。木戸孝允が「治国の基礎は有司専制に御座候」と書いた。その後、議会制への努力は消え、明治政府は有司専制になった。これをもって、「市民革命ではない」といえば、「なるほど」と思うのが今までの常識であった。しかし、クロムウエル、ナポレオンのことを理解すると、両者(英・仏と明治初期の日本)は同一だといえるのである。

ネット上の市民革命論で、産業資本の役割が過大評価されている

「産業資本家を中心とする市民階級が封建性を打破して」、「市民革命には革命の主体となるブルジョワジーの誕生が前提となる」というと、「明治維新はこれらに分類しきれず」という言葉が「なるほど」と思われるようになっている。「幕末には産業資本がないから」と考えて、納得してしまう。しかしこれは間違いである。イギリス革命、アメリカ独立革命のころ、まだ産業資本は発達していない。手工業、職人、工房の段階であった。マニユファクチャがあったとは言われるが、まだ小規模で、農村に散在していたから、とても全国的な権力を組織する勢力にはならなかった。産業資本家が有力になるのは、産業革命が進行し、大工場の所有者、経営者が首都に集中するようになってからのことである。それは1800年代の中期になる。それまでは、大商人、銀行家、がブルジョワジーの中心であった。この階層が、市民革命直後の権力を組織した。これがたたしい解釈である。そうすると、「明治維新はこれらに分類しきれず」といえますか。大商人ならいるではないか。「ブルジョワジー」という言葉は、「産業資本」に限定されるものではない。「ブルグ」に住む者のことであり、「ブルガー」複数形で「ビユルガー」、フランス語で「ブルジョワ」といわれ、それの総体がブルジョワジーといわれた。ブルグとは、城壁都市のこと、今ならドイツのロマンテイック街道で実例がみられる。そこの上層は、大商人、銀行家(金融業者という方が正しい)であり、中間層に手工業の親方層がいる。下層は市民権を持たない。そうすると、ブルジョワジーに相当するものは、幕末の「町人」になる。城壁がないという違いがあるだけで、本質は同じである。だから正確には、市民革命を「町人革命」と翻訳したほうがよかったのである。

ネット上の市民革命論に間違いがある・「革命の主体」を巡って

「市民革命には、革命の主体となるブルジョワジーの誕生が前提となる」、「新興の産業資本家を主体とする市民階級が封建権力や絶対主義権力を倒し」、「市民(ブルジョア、資本家、商工業者)が主体となって推し進めた革命と定義される」、「「ブルジョワ革命には大別して貴族及び地主を主導勢力とする不徹底なドイツ型と、農民小ブルジョアを主体とする急進的なフランス型がある」。これが、諸説ある中での要約です。すると、主体は何か?ブルジョア一般、産業史貧家、小ブルジョアの三つに意見が分かれます。このうち正しいものはどれか。ブルジョア一般です。当時の産業資本家は、まだ権力を構成するほどには成長していなかった。こうなるのは、イギリスでは百数十年後、フランスでは数十年後、アメリカでも数十年後であった。「小ブルジョアがフランス革命で」というのは、ごく一時期の現象であった。しかもパリで起こったことでした。これについては、私が本やブログで詳しく説明しています。大体、小ブルジョアが全国権力を組織することはあり得ない。

次に、主体というのはどういう意味か。武器をとって戦うのか。ビジネスに専念しているものが、ある日突然武器を持って戦うのか。相手は貴族、腰に剣をぶら下げている。西洋の場合、常に馬に乗る。戦いのプロ、戦士ですよ。日本にはないけれども、騎兵軍団の突撃というのもある。これを資本家、ブルジョアが即席でするのですか。やっても負けるでしょう。ならばどうしたのか。ズバリ金を出したのです。自分たちの利害のために戦ってくれる人間、その集団に軍資金を提供する。それを受け取る指導者との密接な人間関係を作る。こうして間接的に市民革命を成功させるのです。金をもらって戦う戦闘集団は、いろいろありうる。首都に住む中産階級、下層階級、これはイギリス革命、フランス革命の初期に出てきます。アメリカ独立革命では、最初のボストン郊外の戦い、(コンコード。レキシントン)、ここで活躍する武装した農民です。つまり西部劇の主役です。だから革命の戦闘集団として歴史に残りました。しかしそれ以後本格的な戦いになると、片手間の武装集団では勝てない。そこに登場するのは、旧支配者集団の反主流、正義漢、信念の人、戦術の天才です。クロムウエル、ナポレオン、ワシントン、などなど。資本家、ブルジョアは彼らに資金を提供した。英雄が去り、時がたつと、資本家、ブルジョアの支配が固まった。だから、表に出てくるものを主体というならば、資本家、ブルジョアは主体ではないでしょう。この視点から見ると、薩長の軍団が幕府を倒し、それに三井などの大商人が資金を提供し、最終的に財閥支配を実現したという観点に立てば、明治維新を市民革命ということができるのではないか。これが私の見通しです。

ネット上に見る市民革命論の間違い。市民革命に主体はない。

一つのサイトに4人もが主体という言葉をつかっています。一人が商工業者、二人が産業資本家、一人が小ブルジョアと農民です。答えが四つある。真理は多様であると、冗談を言っているときかね。実は全部間違っている。市民革命には主体がない。あるのは連合と離合集散だ。それは、ある特性から来るもので、本来だれにでもわかるものです。「実業家が戦争に行くか」です。革命は命がけの戦いが続くもの。そこに資本家が参加すると、その経営はどうなるの?つぶれるでしょう。其の点、貴族は大土地所有の上に立っているから、長時間留守にしても大丈夫。だから、日ごろも戦闘の訓練をしている。特に西洋の貴族は馬に乗って戦うので、日ごろから騎兵としての訓練を続けている。この訓練を資本家が続けてどうする。そんなことは分かり切っているでしょう。反革命の主体は貴族、(日本ならば武士)、しかし革命の側は資本家というわけにはいかない。資本家は金を出して、間接的に支えるだけ。だから常に、戦闘をしてくれる同盟者を見つけるだけです。

金の力は強いとはいっても、命がけで戦ってくれているときには、自分が一歩引いて、「ぺこぺこ」しなければならないでしょう。栄誉はすべて、戦ったもののもの、そうしなければ戦いません。負けたら、自分たちもみな殺しだ。さらに、戦っているものは、何か崇高な理念の下で精神を高揚させないとだめです。「今から、金の世の中を作るために戦います」、「資本家に金をもらったから戦います」では、大衆の支持も得られない。

そこで控えめに振舞う。指導者との個人的な付き合いだけを通じて、影響力を行使する。これは文書にも残さない。だから、歴史書にも残らない。歴史家も書かない。こうして、「無い」ことになる。実際にはある。こういう勢力を「主体」と呼べるのか。それでは資本家以外の者を主体というのか。それを言い出すと、各国の歴史では、ばらばらになってしまう。そこには特殊性があるだけで、一般法則はない。だから「主体」はないのです。
2019,2,27

ネット上の市民革命論に間違いがある、明治維新が市民革命といえないのか、

グーグルで検索すると、トップ記事に、「明治維新はこれらに分類しきれず」と書いているのが目立ちます。つまり、イギリス革命、アメリカ独立革命、フランス革命との共通点はないということなのでしょう。なぜかというと、「ブルジョアジーの誕生が前提となる」と書いています。大商人はいるではないかというと、「それはだめだ、産業資本家が誕生していなかった」と反論するでしょう。そこで、産業資本家は、イギリス革命のときにもなかったと反論できます。すると、「商人が何をしたというのか。討幕は薩摩、長州の下級武士が主体となって実現したではないか」と反論してくる。つまり下級武士革命論です。これに異を唱える者はいない。正面から反対するのは私くらいのもの。

なぜ異を唱えるのか。市民革命に主体はない。あるのは、同盟だけだ。ブルジョアジーとその他の何か。ブルジョアジーは普遍性、その他は特殊性に属します。薩摩、長州の下級武士は特殊性、イギリスのクロムウエル、ジェントリーと同じ。革命の側が勝って、安定すると、両者の同盟が敗れ、どちらかの単独政権となりうるが、ブルジョアジーの金と組織力が強く、その他の勢力は姿を消す。これを基本法則にすると、明治維新が「これらに分類できる」のです。
2019,2,28

ネット上の市民革命論に間違いがある、ドイツ市民革命について。

「ブルジョア革命には、大別して貴族及び地主を主導勢力とする不徹底なドイツ型と、農民、小ブルジョアを主体とする急進的なフランス型がある」。これが最初のサイトに表れている文章です。この文章に疑問を感じませんか。「主体」といわれるものは違う。それは良いとして、それにもかかわらず「市民革命」と呼べるためにはどういう性格があるのですか、市民革命という言葉でくくられるためには何があるのですか。何か共通点がないと、同じ言葉で呼べないではないか。こう質問すると、相手はヒステリックになって、何かわけのわからぬことをわめいて、決裂する。これが過去の私と、ドイツ史家との議論でありました。

不徹底であろうとなかろうと、何か一つの共通点があるから、一つの言葉でくくれるのでしょう。こういって「その一つの共通点は言えるか」と追い詰めますと、そこで絶交になってしまう。学者の世界はこんなものでした。誰もいえないのでした。その共通点ひとことで言いましょう。「それ以前は大土地所有者が権力を組織していた。それが破壊されて、ブルジョアジーの支配する社会にになる。それが共通点だ」。「ただし、その時に、一時的同盟者が活躍し、それが歴史の表面に出てくる、その部分は特殊性であるが、特殊性をそれぞれ持つということは、皮肉なことに共通だともいえる」。ドイツの場合、ビスマルクに代表されるユンカーの一部がそれに相当する。この言い方は、何を言っているかわからないだろうが、あとでわかる。
2019,3,3

体操で老後を豊かに、お雛様座りから始まる健康体操

3月3日の雛祭りを記念して、健康体操としての真向法、仏教、ヨガ、聖徳太子の関係について、私見を述べます。ユーチューブにこの動画を投稿しました。しかし歴史的な説明は、そこでは説明しきれません。だから、このサイトにしまいた。お雛様座りから礼をするのは、頭面節足礼といいます。額が頭に着きます。それをスローモーションで何度かした後、次に足をそろえて、前に倒します。次に開脚で前屈です。次に割座のまま後ろに倒れます。次に仰向けのまま足をほどき、静かに瞑想をします。この健康法は真向法と呼ばれます。

忙しい人に向いているので、財界人の間で広がっているといわれています。芸能人も何人かしている姿を披露していました。私も20年くらいしています。体操を、動と静に分け、動の部分をスロー、クイック、リズミカルに割けると、スローの部分に相当します。

この体操、日本生まれのものだというのが、これを推進している協会の意見です。宗教にも関係ないといいます。それでよいのでしょうが、私は二つの疑問を持ちました。創始者が、仏典を参考にしたと書いておられる。お寺の出であったらしい。例えば、「しょうまん経」に「頭面節足礼」という言葉があり、これは何かということを調べると、お雛様座りから礼をするのもだということを知り、これを第一動作にした。そうすると、仏典からのものであり、仏教に関係が出てくる。仏教に潜んでいる体操技術ではないか。長い間、そう思っていました。

次に、ヨガの経典が翻訳出版されて、読む機会がありました、すると、真向法のすべての動作が、、ヨガの行法に記載されているではないか。これは、仰天することでした。これをどう解釈すればよいのか。約20年間考え続けました。自信はないけれども、今一つの解釈を持つようになりました。「まず、ヨガの行法があった。これは数千年前の事、書かれたものはなく、一子相伝で伝えられる。もちろん、実子とは限らない。紀元前500年ころ、釈迦、ブッダ、ゴータマ・ジッタルタが出た。彼が仏教を開いたが、彼が悟りを開くまでの修行はヨガであった。他のものはないからである。だから彼が教えて、広めた行法は、ヨガの一部になっている」。「おそらく、だれが広めて教えても、ヨガの体系の一部になり、ダイジェスト版になるのではないか。膨大な体系があり、全部するといっても、時間が足りないから」。「仏教徒は、釈迦が修し、釈迦が広めたヨガの一部ではないか」これがかりの結論です。だからシッダアーサナは入っていない。取捨選択があるのでは。こういうところに行き着いています。
2019,3,3

ドイツの市民革命はいつ実現したか?

ドイツ連邦は、約30の大小の諸国家に分裂したままで1848年3月革命を迎えた。この日までは、全国土が前近代的社会で、市民革命はどこにもない状態であった。この点は、研究者全員が承認するものである。ただし、ドイツの特殊性がある。ハンブルグ、ブレーメン、リューベック、フランクフルト、ローテンブルグなど、良く知られている城壁都市、(今は城壁を散りはらったところもある)は、小都市国家で、大商人、手工業の親方層が支配する自治共和国であった。この小さな面積の中では、市民革命が実現しているということはできるが、面積から見ると取るに足らないので、これを問題にすることはない。

最大の国家はオーストリア帝国、今のチェコスロバキア、ハンガリーを含んでいる。ナンバー2がプロイセン王国、ベルリンから北東にひろがる。中西部に、ハノーヴァー王国、バイエルン王国、ザクセン王国、をはじめとして、中小の諸国家があった。共通点は「すべて大土地所有者の集団が支配する国家」、これである。そして、彼らは腰に剣をつけ、戦闘の訓練をする。つまり戦士であった。日本の戦士は、歩兵が多いが、西洋の戦士は騎兵であった。

ただし、ひとつドイツの歴史をわかりにくくする特殊性があった。ユンカーというものの存在である。ユンケルとも発音される。ビスマルクがもっとも有名であるが、ロンメル元帥も知られている。プロイセン王国の中小貴族、農奴解放令で農民が自立した後、自分の直営地で農業経営を行い、商品作物を生産していた。近代的地主のようでまあるが、封建貴族の家柄を引き継いだ側面もあり、国王の高級官僚の地位を独占していた。ユンカー以上の大貴族もいたが、地位はユンカーのほうが上というところに特殊性があった。(これに似ているのは、日本、江戸城における大大名と譜代小大名の関係である)。

プロイセン以外のドイツ諸国では、大貴族が権力の指導権を握り、以下、中小貴族とピラミッド型の権力構造になっていた。つまり、大貴族と中小貴族の配置は違うけれども、貴族大土地所有の支配という意味では共通であった。これが共通点である。この状態で、1848年の3月革命を迎える。
2019,3,8.

ドイツの市民革命はいつ実現したか?続1、三月革命の失敗

1848年3月、ドイツ諸国で大規模な反乱がおこり、支配者位であった王侯貴族は逃げ出したり、監禁されたりして、各地に革命政権が樹立された。革命政権の指導権は、ブルジョアジー(ドイツ語ではビュルガー)が握り、ビュルガリッヘ・レヴォルチオン(これが日本語に翻訳されて、市民革命になる)が実現したかに見えた。しかしそれは短い期間に過ぎなかった。一般的にいうと、貴族階級が気を取り直して、武装勢力を集め、革命政権を攻撃して、勝利した。最大の国家であるオーストリアでは、革命勢力が首都ウイーンを占領し、皇帝と貴族階級はインスブルックに集結して対峙し、最終的に皇帝の側が大軍を派遣して革命政権を制圧した。その時の司令官をラデッキー将軍(大貴族)という。ヨハン・シュトラウス親子は、革命と反革命に分裂し、父親はこのラデッキー将軍を賛美して、「ラデッキー行進曲」を書いた。ウインナワルツの最後を飾る曲である。オーストリアは他国の革命政権もつぶして回った。ザクセン王国では、ワグナーという音楽家が革命の側で活躍し、失敗してスイスに亡命した。つまり、ドイツ三月革命は市民革命としては失敗に終わった、これは世界中の常識になっている。その点について、意義があるのではない。ただし、プロイセン王国についてだけは、そうではないと、私だけが異議を提出しているのである。理由は後程。
3,12.

プロイセン王国(プロシア)の三月革命は市民革命になった。

これが私だけの主張であって、他の学者たちの主張と違うところである。まずは事実関係の説明から。三月革命でプロイセン国王は逃げ遅れ、王宮で革命勢力の捕虜同然になった。国王を守る軍隊は郊外に撤退した。この状態で、国王は首相にカンプハウゼン、財務大臣にハンゼマン、商業大臣にミルデ、のちにフォン・デル・ハイトを任命せざるを得なかった。これは重要な意味がある。この地位は、ブルジョアジーにとって最も重要な権限を含むところである。そして、この4人はともにブルジョアそのもであった。この順番に、銀行家、大商人、工場主、貴族の身分を持つ大商人であった。しかも前の二人は、ライン州にビジネスの基盤を持っていた。この意味も重要で、ライン州は本来のプロイセンではなかった。首都ベルリンとの距離は約600キロメートル、その間にハノーヴァー王国があるから、飛び地になる。しかも、1815年に合併されたものであるから、いわば征服地扱いになる。そこを支配していたのは、ベルリンから派遣された国王の官僚(ユンカーと呼ばれる中小貴族出身)であった。この支配をはねのけ、そこの財界のトップが東京・大阪の距離を旅して、国王の前に出て、首相、財務大臣に任命され、全国の号令した。これまさに革命であり、これほどはっきりしたブルジョアの革命は、他国には見られない。つまり、ブルジョアは政権の表面には出ないのが普通である。つまりこれだけでも、「プロイセンの三月革命ほど、ブルジョアの革命であることを明確に示したものはないということであり、他国ではもっとそこをぼやかしているのである」。つまり、間接統治が普通であり、カンプハウゼン、ハンゼマンは直接統治をしたのであった。
2019,3,13.

ドイツ史家の陥る共通の間違い、ブルジョアジーは利益を追求するので、理念を追求するのではない、

実業家の集団は、利益追求を最優先にする。これは当然のことで、その反対のことをしたのであれば、、その集団から追い出されてしまう。これは分かり切っているはずなのだが、ドイツ三月革命を論じるとき、ドイツ史家はそれを忘れる。そのため、ドイツの市民革命の時期を間違える。これがネットの説明にも出てきて、それが世界の常識になっている。

例えば、三月革命で首相になったカンプハウゼンについては、こう書かれている。「オットー・フォン・カンプハウゼン、ケルンの銀行家、3月から6月首相、この内閣は国王ら旧勢力との妥協に終始し、革命の『挫折』への道を開くことになった。ライン汽船会社設立、ケルン商業会議所会頭、1747年、プロイセン連合州議会で自由主義の領袖として、政府批判」となっている。つまり、彼は、革命前は確かに実業家であった。また自由主義者として、政府、国王に対立した。そして、革命で首相に押し上げられた。しかし、三か月でやめた。やめた理由は、革命の推進を求めた群衆を弾圧し、人気を失ったから。正確には、武器庫を襲撃したベルリンの群衆に発砲せたからである。これで人気を落としてやめた。こういうものを革命の挫折だというが、本当か。封建勢力からやめろといわれてやめたのではない。革命勢力の中で、人気を失ったからやめた。やめた後、1849-1851プロイセン上院議員、1869年財務大臣、1873年つまりビスマルク内閣の下で副首相になった。つまり、権力の一端を担っているではないか。反革命、絶対主義というのは、こういう人物、ブルジョアジーの代表者を権力から締め出す政治体制を言う。カンプハウゼンは自由主義を捨てて、権力をとった。これを裏切りと批判するのは、中産階級、下層階級からの批判であり、こちらはまだ理念を優先していたが、ブルジョアジーは実利をとったのである。だから、ブルジョアジーは負けたわけではない。「冷静な歴史分析よりも、理念に元ずく正義漢、感情が優先されている」、これが非科学的な歴史分析になったいる。このようにいうと、私の知り合いのドイツ史家は、すべて不愉快な顔をして、絶縁状態になった。
2019,3,17.

ネットに見るドイツ市民革命論の間違い、ハンゼマンの役割を誤解している。

プロイセンの三月革命で、ダヴィット・ハンゼマンは重要な役割を演じた。これを正しく解釈するだけで、プロイセンの三月革命は市民革命であることを認めることができる。二つの欠点の為にそうはならない。一つは市民革命についての誤解から来る。もう一つは、歴史家が経済のことを知らないところから来る。

まずは事実から始まよう。ハンゼマンは牧師の息子、商人の見習、丁稚からはじまり、羊毛商人となって成功し、保険、鉄道の会社を設立した。アーヘン商業会議所会頭、州議会議員、立憲君主制を主張した。ここまでは革命前の姿であった。革命とともに、新政府の財務大臣(大蔵大臣)に就任した。この後の説明が「急進勢力の伸長を恐れ、民衆運動の弾圧に向かった」となる。これは事実である。この言葉は多くのドイツ史家が書くもので、その延長が、「旧勢力との妥協、革命の挫折、絶対主義への逆戻り」などの言葉が使われて、つまりプロイセンにおいても、市民革命は成功しなかったと書く。

しかし私の意見「ブルジョアジーは権力をとると、同盟者を切り捨てるときがある。利益追求の団体であるから、状況次第で意見を変える」という観点から見ると、「民衆運動の弾圧」は、ブルジョアジーの政権としてはむしろ当然のことで、これをもって、ブルジョアジーの権力ではないというのが、「見当違いの意見」になる。フランス革命でも、権力をとったブルジョアジーが、何度も民衆運動を弾圧した。

ではハンゼマンは権力をとって何をしたか。これについては「立憲制導入、封建的特権の廃止につとめた」と書いている。これがまた誤解の種になる。「立憲制が彼の目的か?」それなら、その後の展開を見ると、「立憲制」は実現しなかったから、彼は失敗したので、つまり「三月革命は失敗に終わった」ことになる。「封建的特権の廃止」については、「これはいい加減な文章である」を言わなければならない。領主権とか、農奴制とか、このような特権は、プロイセンにおいては、1811年の農奴解放令で廃止されている。「領主裁判権」が残っていた。これを廃止し、「将校に対する免税特権」を廃止した。これだけです。つまりは、針小棒大の表現です。ならば、ハンゼマンは何もしなかったのか、これが問題です。実は大きな役割を果たしている。それは、経済、財政政策にある。これは、政治史中心のドイツ史では紹介されていない。だから政治史中心の革命史はだめなのです。さりとて、今から私が書こうとすると、それ自体が一つの論文みたいになります。とても人に読んでもらえるものではない。したがって、関心がある方は、私の著書、論文を読んでくださいというほかはない。『市民革命』という本の中で書いています。具体的内容はこの本の中にあるとして、「ハンゼマンは権力をとって、ドイツっブルジョアジーの利益のために奮闘した。これをもって、ブルジョアの革命であったということができる」、こう言い切ることができるのです。
2019,3,24

ドイツ三月革命の結果、プロイセンだけが違う。

1848年三月に起きたドイツ諸国の三月革命は、一度はドイツブルジョアジーが勝利したものの、貴族勢力の再結集と、革命勢力の分裂の為に、元に戻ったと解釈されてきた。これはほぼ全員一致の結論であった。元に戻るとは、オーストリアとプロイセンは絶対主義国に、他のドイツ諸国は封建制度のままの政治体制に戻ったということである。どちらにしても、大土地所有者が戦士階級として統治するものであった。彼らが支配者であり、平民は被支配者であった。平民の上層部がブルジョアジーと呼ばれていて、ドイツ語では、「ビュルガー」と呼ばれていた。大商人、金融業者、産業革命がはじまると、工場主、鉄道経営者、その他の近代的経営者であるが、当時はまだ個人経営化、数人の共同経営であり、オーナー経営者であった。

三月革命で権力を握ったものは、この「ビュルガー」であった。プロイセンで権力を握ったものとしては、首相カンプハウゼン、財務大臣ハンゼマン、商業大臣ミルデ、のちにアウグスト・フォン・デル・ハイトであった。出身階層を言うと、順番に、銀行家県貴族、大商人兼保険会社、鉄道会社の経営者、工場主、繊維の大商人兼貴族であった。
2019,3,25

ネット上のドイツ市民革命論について間違いがある、プロイセン三月革命を巡って。

プロイセン王国の三月革命は市民革命であった、これを、すべてのドイツ史家はそうではないという。これが私と彼らとの違いである。彼らの間違いの共通の祖先は、なんと「マルクス・エンゲルス」であった。この時期、マルクスは「新ライン新聞」を発行していた。これに、カンプハウゼン、ハンゼマンは協力した。つまり、のちの科学的社会主義者は、三月革命直前、銀行家、大商人、鉄道経営者など、ブルジョアジーと呼ばれる人たちと協力していたのである。妻は大貴族の娘であるし、貴族社会との交流もある。出資者のブルジョアよりも挌付けが高い。

三月革命で、、カンプハウゼン、ハンゼマンは首相、財務大臣(大蔵大臣)として権力を握った。その直後、この政権は民衆運動を弾圧した。カンプハウゼンは人気を失い、辞職した。ただし、何もかも失ったのではない。次に、プロイセン王国代表として、フランクフルトで開かれた全ドイツ諸国の代表者会議に出席した。これも、革命前なら、貴族、ユンカーが出席するところであるから、革命の成果は出ているところである。マルクスはどうしたか。これを支持するわけはない。できたばかりの新政府を裏切りだと見る。批判の論陣は影響力を持ってくる。やがて、マルクスもエンゲルスもイギリスに亡命し、ドイツブルジョアジーの裏切りを学問の基礎に据え、「科学的社会主義」の理論を作り出した。これが約100年間、歴史科学の基本になった。だから、ドイツ三月革命は市民革命にあらずという固定観念が地球上にできたのである。私は、これが間違いだという論陣を、約60年前から張ってきた。

どこが問題か。ドイツブルジョアジーが裏切ったという。それは正しいでしょう。「しかし、ドイツブルジョアジーが、彼らの利益を裏切ったのですか?」。つまり、自分の利益を裏切ってまでも、貴族、ユンカーの力に屈服しましたか。このように問題を立てなければなりません。ここでいうのは「利益」であって、「信念、理想、学問」ではありません。ブルジョアジーが、ある一つの信念にこだわり続けるということはないでしょう。三月革命の直前には、「立憲主義」つまり、イギリス流を唱えていた。しかし途中で、普通選挙制にはこだわらなくなった。上院(貴族院)ができて、自分がそこに入ることになると、それでよいと思う。こうして、カンプハウゼンは上院議員になった。実業家としての行動は続ける。その後のことについて、もっと重要なことがある。実は、兄がルドルフで、弟がオットーであった。今問題にしているのは、ルドルフであって、弟は、「オットー・フォン・カンプハウゼン」となる。貴族になっている。これが、のちにビスマルクがドイツを統一した時、「財務大臣」になった。ビスマルクはオットー・フォン・ビスマルクと呼ばれる、古くからの名門貴族(ユンカー)であった。名門貴族とブルジョア上がりの貴族が協力して国家権力を動かしている。フランスの結果と同じではないか。ここまで言うことで、先回りして、ドイツ統一戦争が、全ドイツの市民革命になったという私の意見を書いておきます。2019,3,27.

ドイツ市民革命論の間違いは、カール・マルクスの著書から始まる

1848年のドイツ三月革命で、プロイセン一国だけでは市民革命が実現した。これが正しい見解のはずだが、これを「そうではない。ブルジョアジーが裏切ったからだ」という見解が優勢で、打ち消してしまう。歴史学の中では、これが真理として確定されているから、正しい見解を唱えることは容易なことではない。読者に分かってもらうために、もう一度、ハンゼマン、メヴィセン(メーヴィセン)、カール・マルクスの三人を代表者として説明する。

この三人ともに、三月革命直前、社会主義者であった。ハンゼマンは鉄道国有化論を唱えていた。メヴィセンは繊維工場のオーナー経営者、それも父親の代からであり、歴史、哲学の教養があり、社会主義思想を持っていた。マルクスはもちろん社会主義者であったが、この時点でまだ無名の青年文筆家であった。(ここで、あれ!と思う人がいるかもしれない。社会主義といえばマルクスじゃないかと。今はそう思われるのが当然ではあるが、当時は、社会主義といえば、サン・シモン、フーリエ、ロバート・オーエンであった)。メヴィセンはサン・シモンを信奉していた。サン・シモン伯爵はフランスの大貴族の一族、銀行による産業の育成が社会主義の実現につながるという理論を展開した。そこで、メヴィセンは、投資銀行を設立して、その本社をシャフハウゼンに置いた。(シャーフハウゼンともいわれる。スイス国境にある町、ライン川の滝があり、ここからライン下りが始まる。交通の要衝)。メヴィセンは投資会社としてのシャウハウゼン銀行を設立し、ライン鉄道の重役、ケルン商業会議所の会員となり、カンプハウゼン、ハンゼマンとの交流をもった。

こういう状況で、三人が三月革命に臨んだのである。ハンゼマンが財務大臣に就任し、マルクスは、ハンゼマンが旧支配者と妥協し革命を裏切ったと批判した。マルクスの書いた文章はこれ一色であった。口汚く言うとすれば、「ハンゼマンの奴はだめだ」というものであった。「だから、革命は失敗した。許せぬ」というような論調が至る所にある。しかしながらである、ハンゼマンとメヴィセンの関係を見ると、別の景色が見えてくる。メヴィセンのシャフハウゼン銀行が支払い停止の危機に陥った。ハンゼマンは財務大臣として、これの救済に全力を挙げた。国家財政をつぎ込んだ。有利な条件で救済されて、メヴィセンは再生したシャフハウゼン銀行の最高経営者に残った。この銀行はライン川沿岸の重工業の産業革命に大きな役割を果たした。つまり、ハンゼマンはライン川沿岸のブルジョアジーの利益のためには貢献したのであった。そこに「裏切り」があるのではない。マルクスの思う社会主義は裏切ったかもしれないが、ブルジョアジーの革命は裏切っておるのではない。

これ以後、プロイセン特にライン州プロイセンのブルジョアジーは急速に発展する。メヴィセンはグスタフ・フォン・メヴィセンと称して、貴族的ブルジョアになる。イギリスに亡命して、対岸のドイツを見ているマルクスは、それまでの社会主義を「空想的社会主義」と切り捨て、自分こそが科学的社会主義、科学的歴史観の創始者だあると主張した。それ以来約100年、世界はマルクス主義全盛期になり、ドイツ史の解釈は、マルクスの論説が基礎になった。現在、マルクス反対を主張する学者であっても、「本人の知らないうちに」マルクスの理論を、ドイツ史の中で述べている。これが、ドイツの市民各根意を巡る間違いになる。要点は何か。マルクスが感情的になって、ドイツブルジョアジーの裏切りを糾弾するあまり、前時代と新時代の違いを認めなかったことである。これが科学的歴史観を称する学問の中に入ってきたからであった。科学のなかに感情が入ってきたのである。世界はまだその呪縛から抜け出せていない。ネット情報を見てもつくづくそう思う。

もう一度整理しよう。ドイツ三月革命で、プロイセン一国では、市民革命が達成された。マルクスは、それを否定する歴史観を残した。今なお、ネット情報では、後者の意見が流通している。そこが、ドイツ史の科学的解釈の実現を妨げている。
2019,3,29.

ドイツ市民革命論の難関、ビスマルクを正しく評価せよ

ドイツ三月革命で、プロイセン一国では市民革命が達成された。その他のドイツ諸国では、絶対主義、あるいは封建制度のままの大勢に戻った。城壁都市の都市国家は昔と変わらずであった。本質的な変化とは、プロイセンではブルジョアジーが権力を握り、他の国では、大土地所有者の集団が権力を握っているということである。しかし、マルクスは、プロイセンでも反革命になったという。エンゲルスも「革命と反革命」について、本を書き、これは名著として長く権威を持った。私も学生時代、先輩からこれを推薦されたことがあった。「社会科学のバイブル」のようなものだというのである。要点は、ブルジョアジーの裏切によって、何もかもダメになってしまったというものである。それまでの歴史書が、人物中心、国王、貴族中心の物語であったから、「ブルジョアジ-」が出てくるだけでも新鮮な感じがした。やがて、「具体的にどういうブルジョアか?」という疑問を持ち、それを探しているうちに、経済学に興味を持ち、ついには、経済学博士になってしまった。ここのところは、私の学問上の原点といいたいところである。

さて、ブルジョアの実例として、カンプハウゼン、ハンゼマン、メヴィセン、ブライヒレーダー、クルップ、ティッセン、ロートシルド、メンデルズズーン、ジーメンス(シーメンス)などの名を知るようになった。本当はもっと知っているけれども、読者に対してはこの程度にとどめるべきかと思います。このようなブルジョアたちは、ビスマルクがドイツ統一に乗り出した時、挙げて賛成の立場に立ち、協力した。ならば、ブルジョアジー、ドイツ語でいう「ビュルガー」は勝ったということではないか。それを、エンゲルスは勝ったとは言わない。これはおかしい。このあたりから、、そういう疑問を口にし始めたので、学問上の友人との間で、離別、敵対が始まった。友人のほぼ全員が、エンゲルスの理論から抜け出すことはなかった。今は全員がマルクス・エンゲルス主義反対を唱える。しかし、この部分は、反対どころか、「踏襲」を続けている。

マルクス主義のことではあるが、ブルジョアの社会主義に裏切られたマルクスとエンゲルスは、労働者階級主体の社会主義の理論を作り、「科学的社会主義」と称し、それ以前のものを「空想的社会主義」と定義した。こういうことは、世界史の教科書にも載っていた。この理論を実現した国が、ロシア、中国、インドシナ三国、朝鮮半島北部、キューバであった。しかし、社会主義が「共有」、「みんなで」という夢のような理解を持てれていたのと相反して、革命の指導者たちが、国営企業の幹部の地位を独占し、終身、世襲となることは、思いもよらないことであった。これを予見して書いた人はいない。その結果どうなったか、これは誰もが知っていることであり、今、マルクスの権威はなくなった。しかし、ドイツ史解釈については、今なお影響力を持っているのである。

思えば日本史の中に、社会主義の部分が潜んでいる。古代に一つ、中世に一つ、近代に一つである。大化の改新・班田収授の法、幕藩体制、官営模範工場である。はじめを言うと、公地公民制の名の下で、一戸当たりの農地を定め、平等所有にする。昔はこれだけを教えたから、全員平等かと思われた。しかし、実は違う。位田、職田を設け、何百倍、何千倍等々とした。これが世襲になる。社会主義の国営企業の幹部と同じことである。江戸時代、各藩と幕領で、上から、大名、重役、管理職、下級武士、とピラミッド型に編成した。これも武士社会主義の構造であった。明治初期、伊藤博文が中心になって、官営模範工場が建設された。もしこれが成功していると、これを中心に社会主義国ができる。現実は逆で、非効率となり、民営化されてしまった。社会主義か、資本主義化の問題は、この比率の問題であろう。そういうわけで、今はマルクスの権威はなくなった。しかし、ドイツ史に関しては、反マルクス主義者でも、マルクスの意見を踏襲しているのである。
2019,4.1.

ネットに見るドイツ市民革命論の間違い、ビスマルクを誤解している。

ビスマルクを誤解していることについていうつもりで、前置きが長くなってしまったが、まずすべての著者が書いている一文に根本的な御解があるというところから始めよう、。「ビスマルクは生粋のユンカー」、この一文である。この延長で、「ドイツ統一後でも、ユンカーの利益を優先して」となる。つまり、「統一ドイツの支配者はユンカーである」、この意見が暗黙の裡に承認されているのである。。そうすると、ユンカーは封建貴族の延長である大土地所有貴族であるから、つまりは前近代的社会になる。この国をモデルとした明治時代の日本は当然「市民革命前の国家」と位置づけられる.そうすると、天皇制絶対主義説が正しいことになる。

このユンカー支配を強調したのもエンゲルスであった。「ユンカー的ボナパルテイズム論」であるが、ビスマルクの作った統一ドイツがそうだといった。これが世界中で信じられた。今となっては歴史の問題であるが、当時としては、「現代社会の解釈」であった。これが今では、歴史解釈の「暗黙の真理」になっている。このどこが間違っているか。

ビスマルクは生粋のユンカーか?そうではない。14世紀、祖先が商人で、貴族の身分を得て、クラウス・フォン・ビスマルクと称した。フォンは貴族の称号。1816年、ポンメルン地方の新しい農場に引っ越しをした。これで生粋のユンカーといえるか?しかも、先祖、一族に、これといった人物を輩出していない。生粋のユンカーの実例を言おう。ゲルラッハ一族、マントイフェル一族である。これはともに様々は重要人物を輩出している。首相、将軍などである。プロイセンは軍事国家であったから、将軍の地位の重みは特別なものであった。レオポルト・フォン・ゲルラッハ男爵は将軍、副王、ナポレオン打倒の戦いで戦功を挙げた。兄弟のルートヴィッヒ・フォン・ゲルラッハは上級裁判所長であり、ビスマルクを副官にして引き立てた。マントイフェル兄弟は、一人がオットー・フォン・マントイフェルで、首相兼外相、もう一人がエドヴィン・フォン・マントイフェルで将軍であった。議会が軍事予算に反対した時、軍隊を動員してクーデタをおこせと主張した。、これが生粋のユンカーの主張であった。ビスマルクはそれには賛成しない。彼を「凶器の伍長」と呼び、丁重に中央から遠ざけて、議会を攻撃はしないが、無視して軍備を充実するという有名な方針を実行した。生粋のユンカーの方針とは微妙に違うものだが、これがブルジョアジーの側に立つものであった。その理由を次に詳しく説明する。

ネットに見るドイツ市民革命論の間違い、ビスマルク三人組は、生粋のユンカーではない。

ドイツ統一の立役者は、首相(宰相)ビスマルク、陸軍大臣ローン、参謀総長モルトケであった。どの説明でも、彼らがユンカー出身だと書く。そうすると、ドイツ統一はユンカーの業績かなと思い込んでしまう。世界中のドイツ史研究家、学者はほぼ全員これだ。一人私だけが反対する。それ出身だから、最後までその階層に忠誠を尽くすかどうか、途中で裏切るというのもありうる。裏切りやすいのは、本流から外れている部分、これである。この三人組にその要素が歩かないか。

ビスマルクは、祖先が商人であった。これだけで怪しい。本来貴族というのは、馬に乗って突進していくのが仕事であった。日本人は今一つ理解できないが、少年時代から馬に乗って疾走する。重い鎧兜をかぶる。ひと突きで落とされたり落ちたりする。明日という日が確かなものではないという落書きが、城の壁に残されているという。この代償として、大土地所有者になれる。これが貴族の誇りというもの、そこにブルジョアが金の力で仲間に入れてくれという。「成り上がりものめ」という気持ちが出ても当然だろう。ビスマルクもそう思われているはずで、本人も最初から軍人志望ではなく、文官志望であった。しかしこれという高い地位には就けなかった。転機は三月革命に訪れた。国王が革命の群衆に包囲された。軍隊は負けて追い出された。国王は、群衆の要求に屈して、迎合するふりをしていた。フランス革命のルイ16世と同じことであった。この時、ビスマルクは、自分の大土地所有に関係する農民たちを集め、猟銃で武装させ、国王救出作戦を実行しようとした。彼の支配する土地がポンメルン(ポメラニア)(ベルリンの北東部)にあったので、成功の可能性は高い。ただしこの土地は、昔からのものではなく、買い取って、移り住んできたものであった。だから、首都圏で大土地所有者として移り住んだ成り上がりものという一面と、国王に対して恐ろしく忠実で実行力抜群という、二面性が発揮された。他のユンカー、貴族、軍人が呆然としていた時であるから、たちまち保守派から頼りにされた。レオポルト・フォン・ゲルラッハ男爵(国王の侍従武官長)国王に進言して、ビスマルクを引き立てていった。しかし、歴史を終わりから見ると、飼い犬が飼い主の手を噛むというようなことになるのである。

アルプレヒト・フォンン・ローンはビスマルクを首相(宰相)にと推薦した人物で、当時陸軍大臣をしていた。つまり、ビスマルク内閣の前から陸軍大臣をしていて、軍制改革を実行し、軍事予算を編成していた。この前の内閣というのは、ホーヘンローエ・インゲルフィンゲンという大貴族を立て、実権をローンとアウグスト、フォン・デル・ハイト(繊維の大商人、貴族の称号を持つ、三月革命以後商業大臣についた、この時期財務大臣になった)が握っていたものであった。しかし、予算案を議会にかけると、否決された。ハイトは辞職した。これは憲政の常道であろう。つまり、軍制改革、軍備増強はできないことになる。それでは、プロイセンはオーストリアにつぶされるという恐怖があった。当時オーストリアは大国、フランス革命すら、結局はつぶしたことになる。まして、この時、周辺のドイツ諸国はオーストリア側に着くと見られていた。勝てるわけがない。唯一の頼みが、当時発達しつつあった最新の軍事技術を導入することで、これには莫大な費用が掛かった。例えば、大砲を最新のものにする。これから「クルップ砲」が出てくる。電信技術が生まれたので、電線を張り巡らす。この新産業をジーメンス(シーメンス)が創業した。(このジーメンスが日本の古川財閥に出資して、富士電機を作り、今の富士通になった)。ジーメンスも貴族であったが、当時は議会の進歩派に属し、予算案を否決しながら、電信事業では政府と協力した。電信では、命令が瞬時に届く。オーストリア側は、昔通り、騎馬の伝令と、鳩の通信などに頼った。これでは、早さも、正確さも違ってくる。こういうことを含めて、軍事費は、プロイセンの存亡をかけたものになった。しかし、議会で否決されたら、財政支出はできない。ハイトはそこに縛られた。軍の強硬派は、議会の解散消滅を主張した。ローンはこれにも反対、予算案とは別にすることはできないか。かねてそう言っている人物として、ビスマルクがいたという。駐フランス大使をしている。すぐ呼び戻せとなって、ベルリンに帰ってきた。

このようなわけで、ローンはビスマルク登場にとって、死活の役割を演じた。このローンの説明でも、彼がユンカーの代表者であるかのように書くものがほとんどである。しかし実態は、オランダのブルジョアがプロイセンの農場を買い取って、大土地所有貴族になったものだといわれている。ただし、豊かであったかどうかというと、そうではなかったという。

ヘルムート・フォン・モルトケはドイツ統一戦争の名参謀総長、ビスマルクの始めた対オーストリア、対フランスの戦争を勝利に導いた。誰もが、モルトケを生粋のユンカーだと思っている。しかし、そうではなく、父は隣接する小国、メクレンブルクの古い貴族、母はリューベック(メクレンブルクの一角にある自由とし、城壁都市、貿易港)の大商人の娘であった。父が農業経営に失敗して没落し、母の実家で育てられた。40歳のころ、ベルリン・ハンブルク鉄道の理事になった。

こう見てくると、ドイツ統一戦争の立役者三人は、生粋のユンカーどころではなく、「はずれのユンカー」で、どちらに向かって外れたかというと、ブルジョアジーに向かったであることに間違いはない。だから、ユンカー、貴族の家柄から出て、ブルジョアジーのために奮闘するということがありうるのである。

ドイツ統一は市民革命になった、ビスマルクと銀行家の親密な関係。

1862年、ビスマルク内閣が成立したとき、陸軍大臣ローンと参謀総長モルトケの立案する軍備増強政策に議会(下院、衆議院)は多数決で否決した。これで政府は進退窮まった。国王ウィルヘルム1世も退位を考えた。ユンカーの本流エドヴィン・フォン・マントイフェル男爵・将軍は軍事クーデターを主張して、行動を起こそうとした。議会を武力で解散をする、そうすれば、承認は必要がない。そして、オーストリアその他ドイツ諸国と同じ政治体制に戻る。これが本来の正統な国家だというわけだ。しかしこれでは、議会支持者との間で死闘が行われ、オーストリアとの戦いに際して、分裂に乗じられる。それは敗北を意味する。ならば自由主義者の言うがままになるか。それでは、旧態依然した軍備で、戦争に負けてしまう。そこでローンなどは、「無予算」でといいだした。予算案なしに実行せよという。ズバリ言うと、「金を借りてこい」というのである。とはいうものの、このような大金をだれが、だれに貸すのか。陸軍大臣ローンに貸す人はいない。国王に貸す人もいない。

実は、ビスマルクなら貸すという人たちがいた。ブライヒレーダー、メンデルズゾーンなどであった。ベルリンの個人銀行家であった。ここの事情をはっきりと書く歴史家はいない。私だけだ。ただし、銀行家の伝記などでは書かれている。社会科学の欠点は、こうした経済人の伝記を社会体制の分析に結びつけることができないところにある。だから、政治は政治、経済は経済、伝記は伝記とばらばらに並列して書かれ、融合がみられないところである。特に、歴史は人物と政治中心に書かれてしまうので、歴史家の本を読んでも本質がわからないのである。(私の本心を言えば、頭が悪いのである。数学のできないものが歴史家になるから、立体的思考ができないのである。これが東大在学中に思いいたった結論であった)。

さて、ローンはそのことを知っている。だから、彼しかいないといって国王に推薦した。急遽パリから呼び戻した。首相就任は簡単に実現したかのように書かれるが、そうではなかった。反対は多かった。特に王妃は強く反対した。それでも首相就任が実現したのは、「金を持ってくる男」であったからだ。ビスマルクは、クーデターと主張するゲルラッハ将軍を抑え、他方で、議会は、上院の承認のみで十分として、下院は閉会とし、(消滅ではない)、何事もない状態で、金は工面して軍備増強に充てた。どうやって工面したか。銀行家から借りたのであった。これなら摩擦は少ない。

ドイツ統一は市民革命になった、ビスマルクと銀行家の親密な関係、続。

ブライヒレーダーというベルリンの銀行家がいた。ユダヤ系で、父親の跡を継いだ。長男であり、個人経営の銀行であった。ただし、完全独立の銀行家ではない。フランクフルト市のロートシルド銀行の傘下にあり、代理店のような立場であった。ロートシルド家もユダヤ系であるが、すでに、パリ、ロンドンその他に一族で支店を持ち、相互に連絡を取り、国債投機で巨大な資産を形成していた。英語ではロスチャイルド、フランス語ではㇿチルドという。現在ヨーロッパの金融の中心はフランクフルトであるが、当時もまた、全ドイツ諸国の中心であった。

そこに、ドイツ連邦会議の会場が置かれていた。ビスマルクはプロイセン王国の代表として、ここにいた。オーストリアその他のドイツ諸国の代表と協議をする。国王の代理という立場であるから、短期間で上り詰めたことになるが、引き立て役になった人物が、ゲルラッハ、マントイフェルなど、ユンカー保守派の最重要人物であった。つまりこの段階では、ビスマルクはプロイセン絶対主議の牙城を担う、戦闘的な政治家であった。しかし、やがてビスマルクの変化が起きる。その変化を、引き立ててきたユンカーの大物たちは変節とみる。しかし、保守派から変節とみられる人物は、だれから頼りにされるか。これはどこの国の歴史でも、ブルジョアジー、町人ではないか。そのトップといえば、大金を握っている人物ではないか。この法則が出てきた。

ビスマルクが駐ロシア大使として、左遷されることになった。その時、ロートシルド家のパーテイで、ブライヒレーダーを紹介された。それ以来、ビスマルクはブライヒレーダーを自分の農場の財産管理、経済顧問にした。こうして、銀行家とユンカーの結びつきができた。銀行家の側が敏感に見抜いた変化、変節とは何か。それはオーストリアに対する対応策を巡ってであった。ビスマルクが着任してきたとき、彼はドイツ統一は考えていなかった。「私はプロイセン人としてとどまりたい」という演説を残した。ということは、ドイツ統一運動に反対で、分裂したドイツの中で、オーストリアとうまくやっていくつもりでいた。これがユンカー保守派の方針でもあった。だから、プロイセン代表に選ばれた。ところが途中で気が変わった。きっかけは、ドイツ連邦会議で、プロイセンの立場が孤立していると感じたからであった。それに輪をかけたのが、オーストリア宰相シュワルツエンベルク公爵からの電報を「盗む読み」したことであった。そこにはプロイセンの「評価を落とし、そのあと叩き潰す」と書いてあったという。これで幻想から覚め、「どちっらかが倒れるまで戦わなければならない」と悟ったという。この思いをゲルッハに書き送ったところ、猛反発を受けた。こうして、全面的な信頼を失ったこと、これが駐ロシア大使に任命され、国政から遠ざけられた理由であった。だから「左遷」と書かれる。そこのところを、ブルジョアジーの中の情報通がいち早く察知し、まずはブライヒレーダーが接近してきたのである。

時は移って、ビスマルクがプロイセン王国の宰相(首相)になる。軍事予算は否決されたから、増税はできない。それでも最新鋭の武器を買いたい。お金はどこから出るか。それをブライヒレーダーが工面することにした。仲間の銀行家メンデルズゾーン(音楽家の一族、ユダヤ系)を引き入れ、政府財政顧問にした。実はこの二人だけでは手に余る金額であった。そこで、ロートシルド・コンソルティウム(コンソーシアム、公債引受団)を組織し、この資金力でプロイセンの軍事公債を消化した。つまり、そこに集まるブルジョアジーが資金を出し、公債を買い、それを転売したのであった。この中には、ハンゼマンもいた。三月革命の財務大臣、ライン川沿岸の工業化を推進した企業家、若いときのマルクスの友人、この時はデイスコント・ゲゼルシャフトという大投資銀行を経営していた。かつての革命家も、議会を無視するビスマルクに協力した。新興の鉄鋼業者クルップも全面協力の側であった。このようにして、ビスマルク政権は、ブルジョアジーーに支持される政権になった。もはや、ユンカー保守派の政権ではなくなった。これが重要なところである。
2019,4,11.

ドイツブルジョアジーは三月革命の時は民主主義者であり、ドイツ統一の時にはビスマルク支持に回った。

1848年の三月革命が近づくと、プロイセン王国の政府はフランクフルトのロートシルド銀行に国債引き受けを申し込んだ。つまり、金を貸してくれというのであった。しかし、、その政府に信用が置けない。だから、未来の国民代表、すなわち議会の承認があればという条件を付けた。そこで国王が議会を招集し、承認を求めた。議会は否決した。国王は議会を解散した。これで革命が起きた。ブルジョアジーは革命の指導者になった。だから、この時期のドイツブルジョアジーは民主主義者であり、議会主義者であり、立憲主義者であった。

それから約15年、今度は、ロートシルドとその代理人ブライヒレーダーは、ビスマルクを信用して、軍事費を出した。議会を無視して、非難ごうごうであるにもかかわらずである。なぜかというと、それはビスマルクが変わったと見たからであった。ゲルラッハやマントイフェルが貸せといっても貸さないだろうが、そこから離れて、オーストリアとの対決を信念として持つビスマルクならば、これに賭けてみようという気持である。現実にオーストリアとプロイセンの戦争がはじまり、オーストリアもロートシルドに借金を申し込んだが、断られた。オーストリアは怒って、以後ロートシルドを貴族とはみなさないといった。

ドイツブルジョアジーは、以前の民主主義の思想を捨てて、ビスマルクの強権思想に賛同した。要するに、ブルジョアジーに一貫した思想はないのである。本質的にプラグマティストである。これを理解しないと、ドイツの歴史は分からない。ただし、ブルジョアジーの上層がそうであったので、中小のブルジョアジーの中では、昔の信念にこだわる人もいた。ジーメンスなどはそうであった。そうではあったが、注文を受けると、ビジネスでは協力するという。成功して大企業になると、「まあまあ協力しようではないか」と、ビスマルクの出した事後承認案に賛成で周囲をまとめた。

ドイツ統一戦争がドイツの市民革命であることを理解するカギは。ビスマルクの変化、変心、変節を理解することと、ブルジョアジーの上層が議会制民主主義へのこだわりを捨てたこと、この二点を理解するところにある。ドイツ史家のほぼ全員が、この二つの変化を知らないか、無視するか。気が付いてもどう扱うかがわからない、(つまりは頭が良くない)、そのどれかであるから、ビスマルクは永遠に保守派であり、ブルジョアジーは永遠に立憲主義者であるとして歴史を叙述する。これがでたらめなドイツ史を書いている理由である。
2019,4,12.

ビスマルクとともに、ドイツブルジョアジーはドイツの支配者になった。

ビスマルクが首相に就任し、軍備増強案を提案し、議会の反対にあうと、下院を閉会とし、上院だけの承認で有効という口実をつけて、軍隊に近代化を進めた。三月革命のようなものが起きると騒がれたが、争乱程度のもので、革命にはならなかった。その理由といえば、増税をしなかったからである。借金で賄った。この時代には、まだ国の借金に目を光らせる習慣がなかった。だから、一種の無関心が多数の人々にあったからである。

この状況を使って、ブライヒレーダ、メンデルズゾーン、ロートシルドといったユダヤ系金融業者が、首相ビスマルクに深く食い込んだ。ビスマルクの巧妙な外交政策、ローンとモルトケの動かしたプロイセン軍の力、それを保証する電信技術(この調達に金融業者の資金協力があった)、こうしたももののくみあわせで、オーストリ軍をげきはし、北ドイツの中小諸国を合併、統合し、北ドイツ連邦を作り、その後フランス軍を撃破して、南ドイツ諸国を合併して、ドイツ帝国の成立を実現した。ドイツはフランスから賠償金を受け取り、これが軍事公債の償還に役立った。それを踏まえて、ビスマルクは下院に謝罪と事後承認案を提案し、受け入れられた。こうした事件の裏で、ブライヒレーダーはビスマルクの命令で、賠償金の非公式交渉を担当した。つまり実利を握ったのである。だから、参謀総長モルトケのもとの参謀将校たちは、「宰相の御用ユダヤ人」と呼んで、非難した。ユンカー保守派の新聞「十字新聞」は、ブライヒレーダーを批判、攻撃した。陸軍大臣ローンは、「ビスマルクは保守主義者とは保守的に、自由主義者とは自由主義的に語りあう」と嘆いた。ユンカー保守派は、ビスマルクの自由主義的傾向は、ブライヒレダーに原因があると批判した。というのは、彼は毎朝、ビスマルクと面会した。遠慮なくものが言えた。財産管理人だから、当然ともいえる。ただし、全部採用かというとそうではない。報告書にアンダーラインを引いて?、をつけていた。こういうビスマルクのやり方を一口で言うと、以下の彼の言葉にまとめることができる。「政治家は森の中を行く旅人に似ている。目的はあるけれども、あらかじめどの道を通るかは決めていない」。

自国がオーストリア帝国に滅ぼされないこと、これを目的に定めたとして、どの道を通るか、ユンカーの軍事力だけで行けるか、それでは負ける。ブルジョアジーの経済力を合わせる必要がある。そのためには彼らの支持を得ることが必要になる。政治的自由を認めるわけにはいかないが、経済的自由を実現して支持を取り付ける。ドイツ統一の暁には、下院を普通選挙制にして、その決議を尊重するという体制を作る。こういう方向で進み、目的を達成した。しかし、その結果、新生ドイツ帝国は、ブルジョアジーとブルジョア的貴族(ブルジョア的ユンカーを含む)の連合政権になった。これがすなわち、フランス革命の始まりの形であり、1830年の7月革命の結果出てきた形を同じものになった。この一点で、両者の同一性が承認される。1830年のフランスが、1871年のドイツに実現したのであり、これを日本に例えると、1871年(廃藩置県)となるのである。政治的自由、民主主義があるとかないとかは問題ではなく、ブルジョアジーが権力をとったかどうかが問題である。日本でビスマルクに近い人物を挙げるとすれば、大久保利通、伊藤博文になる。
2019,4,15.

ドイツ市民革命論の基本、ビスマルクの与党はユンカーにあらず。

これが真理です。この一言で、ドイツ史の常識が変わります。しかし残念ながら、まだ、「ビスマルク権力はユンカーの権力である」というエンゲルスの定義が、世界中の学者の中にいきわたっていて、だれもが当然のように使っている。そのため、大衆的にはこれが真理だと思われている。東大西洋史学科の同窓生はみなそうで、その中には、1918年のカイザー追放をドイツ革命だといって、これを市民革命だと書いた人もいた。指導教授の林健太郎教授にブルジョアジーのことを少し紹介し始めると、「そんなことあるんですか」といってそっぽを向かれた。「そのような余計なことはしないで、ひとつの歴史事情を深く掘り下げること、それが歴史学である」、このようにいうのが当時の歴史学教授のいうことでした。それなら、政治史ならそれだけ、経済史は知らないなどなどとなり、専門以外のことは口を出さないという態度になる。それでいくのかなと思っていると、老大家になると、なんでも口を出し、「ビスマルク政権はユンカーの権力でした」と発言される。これは、これはエンゲルスの受け売りではないか。それでいながら、マルクス主義には反対といわれる。これはいったいどういうことかといいたいが、東大の西洋史学科、ドイツ史専攻の友人はみなこれであり、世界的にもこのような学者が多いので、説得にてこずっているのが現状です。

しかし、私は、ブルジョアジーの実態を研究していきました。その結果、ビスマルクの支持者はブルジョアジーの上層であるという証明ができるようになりました。党派でいうと、国民自由党と帝国党であった。ユンカーの主流は保守党にまとまった。カトリックの旧支配者(教会の司教、大司教、南ドイツの貴族、国王)は中央党にまとまって、ビスマルクに敵対した。保守党のユンカーたちは、ももともとドイツ統一に反対であった。オーストリアとの戦争は兄弟戦だといって反対した。

つまり旧体制の支配者はビスマルクに反対で、ビスマルク支持者は国民自由党と帝国党ということになる。先に帝国党について説明しよう。ドイツ帝国創立に賛成という意味である。つまり、ドイツ統一戦争に賛成という意味である。これを強調するのは、本来、それに反対している集団から離脱したから、あえてそこを強調しているのである。ではどの集団か。プロイセンのユンカーとその他諸国の貴族たちであった。つまり旧支配者たちであった。その一部が、自分たちの仲間から離れて、ビスマルクの側に着いた。その経済的基盤は、何らかのビジネスにかかわることであった。つまりブルジョア的貴族、ブルジョア的ユンカーであった。ブルジョア的貴族というのは、フランス革命の初期、自由主義の闘士となり、国王とそれを取り巻く有力貴族に対抗した。例えば、ラファイエット侯爵は、最高の貴族コンデ大公に逆らって、「三部会の招集」を要求した。これだけでも、当時は仰天するような、過激な発言であった。当然、銀行家たちはラファイエット侯爵を支持した。似たようなことは、ドイツ三月革命でも起きた。ブルジョア的貴族は自由主義貴族であった。しかし、それから十数年たつと、ドイツのブルジョア的貴族は、ビスマルク支持に移行する。「ビスマルクは独裁者ではないか。なぜ自由主義者が支持するのか」という疑問を出す人がいるだろう。しかし、よく考えてみてください。ビスマルクは、ドイツを統一すると、その統一ドイツ(ドイツ帝国)の下院に普通選挙制を導入した。ビスマルクは、十数年前、三月革命の時には、この普通選挙制に激しく反対してきた。そのイメージがあるから、彼は超保守派だと思われている。つまり彼は転向したのであった。こうして、帝国党はビスマルクノの与党になった。代表的な人物は、カルドルフ(貴族・製鉄所経営者)、シュトウーム(貴族・鉄鋼業者)、ドネルスマルク(大貴族、鉄鋼業者)などである。

もう一つのビスマルク支持の党派は、国民自由党であり、これは上層ブルジョアジーの政党であった。ブライヒレーダーをはじめとする銀行家、ディスコント・ゲゼルシャフトという大投資銀行を経営するハンゼマン、南ドイツブルジョアジーの代表者ばっさマン(印刷業者)などであり、国民自由党がブルジョアジーの政党であることま、常識で知られているから、特に詳しく説明する必要はないだろう。ただ、ビスマルク個人の資質から言えば、国民自由党との提携は、やむを得ずしていることで、本当に気の合うのは、帝国党の貴族であったろう。それでも、現実の政策がブルジョアジーの為になったから。ビスマルク政権は市民革命の政権になったのである。結論、ビスマルク政権は、ユンカーの政権ではなく、ブルジョア的貴族と、上層ブルジョアジーの同盟の上になりたつ政権であった。
2019,4,20、

結論、ドイツの市民革命は1848年に始まり、1871年に終わり、日本では1868年に始まり1871年に終わる。

ドイツの市民革命は、ドイツ3月革命のうち、プロイセン王国のみが市民革命を達成し、他の国家は前近代社会に逆戻りするという、成功、失敗相半ばするという状態で、第一歩を踏み出した。1848年のことであった。どの後、紆余曲折を経て、ビスマルクのドイツ統一戦争により、オーストリアの干渉を排除して、プロイセン王国が他のドイツ諸国を飲みこむ形で、ドイツ諸国全体の市民革命を達成した。これが1871年のことであった。だから、ドイツの市民革命は、1848年に始まり、1871年に終わる。

フランス革命は、1789年に始まり、1830年に終わる。約40年の遅れとなる。日本は、1868年に始まり、プロイセン王国に相当する、新天皇政権が、全国の約4分の1の旧幕領で市民革命を達成し、1871年の廃藩置県(事実上のクーデター)で約4分の3の旧大名領を支配して、全国の市民革命を達成した。これが戦争にならなかったのは、オーストリアのような強力な外敵(前近代社会の)が干渉しなかったからである。
2020,3,24.

新型コロナの爆発で阪神間と北イタリアの共通。点を探る

2020年,3月,23日、テレビの解説者たちが、阪神間の交通自粛問題を取り上げ、なぜ阪神間か、京浜間ではないのか、北イタリアの爆発的流行が、なぜ阪神間にも起こるというのか、政府はどういう根拠で予測をしたのかと、熱い議論をしていました。根拠の一つは統計から来るというものでした。それは良いとしても、なぜそうなるのか、これは誰も発言できませんでした。

私はそれを聞いて「ああ」と思いました。私は、阪神間にも、京浜間にも住んでいた、北イタリアにもいきました。そこの人々の気質の違いも感じました。北イタリアでは、女性を見ると口説かなければ失礼だと割れるくらいの習慣があり、付き添いの男がいてもそっちのけで女性に親切にする。私は女性の集団をつれた行った時、「イタリアの男だけには気をつけなさいよ。公衆の中では女性を大事にせよと言う風習がある。サヴィニ女性の略奪という2000年前の伝説から来る。裏返すと、私室に入った途端に、殴り倒される。暴力亭主が多い。優しい言動に、フラーといってはいけません」といいました。あんのじょう、北イタリアでそうなりましたが、私の警告があったためでしょう、だれも応じませんでした。やれやれでした。

さて、阪神間ですが、昔、朝日か日経の新聞に、文筆家が書いていました。「ルーヴル美術館で、ミロのヴィーナスを見ていると、大声で、えーけつしてけっかる、という言葉を聞いた。仮にも、女神ではないか。憤然とした」。これを見て、私は「あ、あ」と思いました。確かに、阪神間の男の宴会ではそうなる。京浜間では、その他の特性、仕事ができるとかできないとか、複数のことが話題になる。性的興味一本ではない。

そこで夜の営みが違ってくる。もし統計を取って、夫婦、自由恋愛、売買春の数を比較するとしたら、この二つの地域は、抜群に性愛の数が多いだろう。激しさも、粘っこさも違うのだろう。これではコロナの爆発的増加を防げない。交通を遮断すれば、予防策にはなる。それでは経済がマヒする。どうすればよいか。個人が自覚をもって、「清く、正しく、美しく生きてくれればよいのだが」。これでは「何、あほなことをぬかすな」といわれそう。そうすれば別な警告を出せ。「蜘蛛、キリギリスの雄になってよいのか」と。

新型コロナウイルスは性愛によって感染拡大する。

何故この分かり切ったことを、だれも言わないのか。逆にいうと、これをいうのは馬鹿だということなのか。そんなことを考えながら、これを書きます。

濃厚接触、密室、対面、声を上げる、深呼吸、激しい運動、疲労、ウイルスが粘膜に着く、これらすべてがコロナウイルス感染症の対策として、キーワードになっている。だから、給食でも、対面を避けて、平行に並ぶことになる。子供を平行に並べておいて、大人の男女は対面で接近するのかね。ことを行うときに、換気をするか。こんなことを言い出すと、落語、漫才の種はいくらでもできそう。

世界中で、だれもこのことは言わない。ということは、不言実行あるのみが共通法則になっているからでしょう。しかし、これでは、感染症対策は、もぐらたたきになるばかりです。厄介なのは、若い人たちが感染しても、無症状、軽症で過ぎ去ることです。しかし、保菌者(この言葉は今使われていません)の時に、他人に移します。特に厄介なのは、金持ちの中高年男性、若い女性を追っかける。うつされて、重傷、死亡となる。その間、医療機関に多大の手間、暇をかける。医療崩壊、財政破綻を引き起こす。

働き盛りが、出張して帰ってきて発病する。何があったか想像がつく。出張先で街中を歩いていると、女性が突然声をかけてくる。わからないから聞き返す。すると、標準語で、「私と遊びませんか。ホテルにでもついていきますよ」という。つまり方言で声をかけ、わからないと、地元の人間ではないことが確認できるので、誘い込むのです。こういうことは無数にある。経済はこれで回っているといってもよいが、コロナが出てくると、危険極まりない。

何喰わぬ顔のご主人が返ってきて、奥さんを含めた家族に移す。反対もある。千里を遠しとせず、音楽を聴きに行く。意気投合した金持ち男性と一泊する。なにがしかの札束がバッグに入っている。それだけのこと、定義も何もできない。これでよいのだが、コロナがいるとそうはいかない。発病しなくても、感染源にはなる。

こういうわけで、どんなにたたいても、コロナは深く静かに潜航する。「不要不急の性愛を自粛」というと、「不要、不急とは何だ」と言い返されそう。いえることは、コロナがいる限り、恋愛は中高年男性にとって、命がけということです。
2020,3,25.

新型コロナ社会では、孫が祖父母を殺す。

もちろん意図的ではありません。過失致死です。公園で孫が祖父母と遊んでいる。おじいちゃんと孫というのが多いようです。私にもああいう時代があった。ほほえましい。なつかしい。

しかし、待てよ。コロナウイルスの時代だ。子供は走り回る。どこかでウイルスを吸い込んでくる。体につけてくるかもしれない。軽く感染する。無症状または軽症。しかし口からは煙のようにウイルスが吐き出されている時期がある。おじいちゃんは可愛いから、お構いなしにだっこする。濃厚接触です。

こうして感染すると、持病が悪化して、突然重症、死亡となる。おじいちゃんは自分が強者で、孫は弱者、だから自分が保護者で、孫はか弱いものと思っている。しかしコロナ社会では、孫が強者で、おじいいちゃんは弱者です。そこのところをよくよく理解しておかなくてはなりません。

今私は一人で暮らしています。それは寂しいものであろうと人が言います。だからそうなのだろうなと思いつつ、寂しさに負けてはならぬと思い返し、孤独とは戦っていました。コロナが出てきてからどうなったか。一人でいると落ち着く、こういう心境の変化が起きてきました。「一人だと、この家には絶対コロナはいないよな」、こう自問自答しています。二人以上だと、相手がいつ感染して帰ってくるかわからない。「明日という日は確かなものではない」、こう壁に書き残したのは、ヨーロッパ中世の騎士たちだった。馬上試合いでいつ命を落とすかもしれなかったからです。今若い人と同居すると、こういう心境になるのでは。

新型コロナを迎え撃つ秘策、酒豪をテレワークに下戸をオフィスに。

新型コロナウイルスが制圧されない限り、外出自粛と経済活動再開の矛盾に出会い、シーソーゲームをしながら衰退の道をたどる、こういう恐怖を多くの人が持ち始めました。何とかならないか、「うむ、一つ秘策がある」という天の声が聞こえてきました。それがこれ、仰天するでしょう。

しかし、意味がありますよ。酒豪は、仕事が終わるといっぱいひっかけなくては収まらない。いや、これがあるから働けるのだという。ところで、一人酒はわびしい。だから仲間をとなり、いつも群れを作る。社会はこれを中心に動いているようなもの。だから飲めない人間も、飲めないとは言わない。「付き合い程度」といって、飲めない酒を飲んでいる。

そこへ新型ウイルスがやってきて、「こんにちは、皆さん一緒に遊びましょう」となる。大変だというので自粛、これでは酒豪はストレス過剰になるが、家で飲んでいる。下戸は平気な顔をして家に帰る。付き合いがないから、やれやれと思っている。この方が社会は健全です。

さらに、夜の社交は酒と女がつきもの、素人てあろうと玄人であろうと、女性に酒がが付く。下戸はこれができない。夜女性に出会って、酒が飲めなくて何ができる。まあ奥さんとデイナーをというくらいなもの、健全です。新型コロナウイルスにとっては、酒豪と下戸とどちらが取り付きやすいか、これは言うまでもないでしょう。このウイルスは酒豪を軸に自己増殖をしているのです。

新型コロナの患者に消毒剤の注射をとの発言を修正しつつ支持する。

4月25日トランプ大統領の発言「新型コロナウイルスの患者に消毒剤を注射してはどうか」との報道を見て、これはアメリカ中が困っている、すぐに修正意見を出さなければという思いで急いで書いています。

「消毒剤とはとんでもない、しかし、微量のアセトアルデヒドを点滴でというなら、これはありうるのではないか。その量は、例えば私のアセトアルデヒドを測定し、その量で」といいたい。もちろんこれは誰でも良いので、下戸ならよいのですが。この意見は奥の深いものがあります。

サルから人類が進化した時、地面を歩き始めて食料をあさる。木の実、果物を食べるが、食糧不足の時、地面で腐敗、発酵しているものも食べなければ生きていけなかった。つまり原始的なワイン、酒のようなもの、これを有効利用しなければならない。ところで、アルコールを飲むと、すぐに体内でアセトアルデヒドに変換される。これはたんぱく質にくっついて組成を変換させるから、つまりは組織を壊し、やっつけてしまう。量が多いと、体の器官を壊したり、ガン化させたりする。微量だと、細菌、ウイルスを壊すから、頼もしい防衛軍になる。抗体よりも機動性に富んでいる。

しかし、発酵したものを食べていると、大量のアセトアルデヒドを抱え込むことになる。これは危険なので、長い進化の過程で、「アセトアルデヒド分解酵素」を持つ人類が出来上がった。これは飲める。アルコール型なので、A型としておこう。変化しない人類もいた。祖先にちなんで、M型としよう。木の実に依存しなくてもよい場所の人たちです。

M型の人たちは、アセトアルデヒドを分解できない。もちろん、絶対にできないのではないでしょう。能力が小さいのでしょう。酒を飲むと、長い時間酔っぱらいます。だから、A型に対して、劣等感を持っていた。

この問題について今から言いたいことを、まずはまとめてみましょう。

  1. M型は日本人の約半分に相当する。
  2. M型は中国南部、その他水田地帯、稲作文明の地帯に多い。
  3. ヨーロッパ、アフリカにはA型がほとんど。全部という人もいるが。
  4. M型はアセトアルデヒド分解酵素を持たないが、血中に一定のアセトアルデヒドを持っている。これが湿地帯特有の細菌、ウイルスをやっつける効果を持っている。
  5. A型は酒豪だが、アセトアルでヒドをを作り出しても、それを素早く分解する能力があるので、ある時間帯に、アセトアルデヒドの防衛力に空白が生じる。
  6. A型のコロナウイルスに対する防衛力は、強いときと、空白の時があり、空白の時にコロナウイルスが大増殖をする。それが容体急変を招く。この例は、最近の有名芸能人の急死に表れている。
  7. そこで、アルコール注入でこの空白を補えという、感覚的な意見が出されたが、これは無謀だとしても、下戸と上戸の問題、これをサルからの進化の過程に照らして、アセトアルデヒドの問題に修正して、対策を立ててはどうか。
  8. M型が少量のアセトアルデヒドを体内に待っているのは、食べ物に含まれているもの、食べ物のかすが口の中で常在菌によって分解、発酵させられてできるもの、香り(香料、タバコ、フルーツヨーグルトなど)によって、無意識のうちに体内に取り込んでいるからです。

以上の知識を背景として、トランプ大統領の意見をどのようにして人類の役に立てるべきか考えてください。

補論、これを書いていて、思いついたこと、中近東では古来香料を珍重し、高値で取引され、東西貿易の重要な商品の一つのなってきた。コロナの患者に、匂いをかがせる方法もありうるのでは。

以上緊急提案です。
2020、4,25.