小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、ワシントン、ラファイエット、クロムウエルと比較すると

小林良彰(歴史学者)の解釈では、この4人が同じだということになる。共通点は、旧体制、アンシアン・レジーム、大土地所有者の支配を打破する。そのために、ある種の武装勢力(これはその国の特殊事情によって、多様性がある)と、大商人、金融業者(一般的に動産の所有者、フランスではブルジョアジーと呼ばれ、イギリスでは、東インド会社などの貿易商人が優勢、アメリカでは密貿易商人として犯罪者扱い、日本では素町人と呼ばれて、また士、農、工、商の位置づけで最下級となっている)、の同盟を一人で代表する。この同盟の力で、旧体制を打破する。
打破した後では、新時代が来るが、これは動産所有者が指導権を握る社会である。当時ならば、大商人、銀行家(金融業者が進化する)になり、工業はまだ規模が小さい。ただし、むき出しの支配にはならない。まだ武装勢力の大群が指導者を立てて政府に影響を与える。彼らは命がけで戦ってきたのであるから、必ずしも拝金主義者ではない。
こういう状況の下で、この時の指導者は独特の信念の持ち主になる。これが市民革命の英雄の姿であり、ワシントン、ラファイエット、クロムウエル、西郷隆盛になる。
しかし二つの勢力はやがて分裂する。その分裂を象徴する日本版は、大村益次郎(兵部大輔)の言う「今の兵には、1大隊に2大隊の見張りをつけておかないと、何をしでかすかわからぬ」という言葉で表されている。同じような状況が、英、米、仏にも起きた。
イギリス革命では、その分裂の寸前にクロムウエルが病死した。インフルエンザだといわれているが、まさか毒殺ではあるまいなと思う。アメリカ革命では、ワシントンが、大商人の側に立ち、武装勢力の不満には同調しなかった。見捨てられた幹部で反乱を起こした者もいるが、今となっては歴史に出てこない。これが西南戦争のようなものだと思う。
フランス革命のラファイエットは、3年後に、革命政府に対する反乱を起こし、脱出し、敵国にとらえられた。彼は、領主権の無償廃止など、革命政府が貴族に対して、さらなる打撃を与えようとすることに反対したのである。つまり、貴族政治に反対して革命を起こしながら、「もうこのあたりでやめておけ」といいだしたといってよい。
西郷隆盛は江戸城を目指して静岡まで来た。そこで山岡鉄舟と面会する。その内容を軸に、品川で勝海舟と合意に達し、寛大処分、徳川本家を十分の一に圧縮して静岡に移し、江戸城の無血開城で討幕戦を終わらせた。外国軍の介入もありうるから、、日本人同士の戦争は早期終結が必要であった。
この後の西郷隆盛の行動は、不可解なものになる。彰義隊が上野寛永寺に立てこもった。輪王寺の宮を立てて別政府だという。これに対して、説得の努力を続け、討伐しない。京都の新政府から大村益次郎、大隈重信(財政担当)が来て、諸藩藩兵、最新式の大砲の効果も併せて、彰義隊を鎮圧した。西郷隆盛の指導的な役割は後退した。
彼は帰郷し、頭を丸めた。西郷入道といわれた。北越戦争に出かけたが、正式の司令官ではない。しかし実質的な方針を示すことはできた。ここでは寛大処分であったため、庄内藩の藩士は彼を尊敬した。
鹿児島に帰ると、藩政の改革に努め、上級武士の高額の禄を引き下げ、下級武士の状況を改善し、農民の負担を軽くした。商人の暴利は戒めていた。つまりは、中間層としての中・下級武士が戦士、官僚となる小国家を作ったといえる。
その間、新政府は批判勢力が郷里に帰ったので、大商人、新興企業家の政府になってしまった。批判は強くなった。もう一つ、諸大名の領地は独立している。新政府の財源は少ない。全国3000万国のうち、700万国のみが新政府のものであった。全部取ってしまわなければ、新政府とは言えない。ここで、批判的な西郷隆盛を引っ張り出すことになる。西郷隆盛は自分の理想を全国で実現できないかと考えている。
ここで両者が再び提携して、廃藩置県を実現した。これで武士の支配の時代は終わり、新政府の全国支配が完成した。日本における市民革命の完成である。だから、日本革命は、1868年に始まり、1871年で完成するという結論になる。

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