小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、討幕運動の源流

慶応三年末の西郷隆盛は激烈な討幕論者であった。優しくて、おおらかでという一般的な印象とはまるで違う。ともかく、これなしでは何事も始まらないという信念を持ったいた。それはどこから来るか。実は多くの先輩たちがその考えを持ちながら、その時期に出会わずに終わったのである。
寛政三奇士といわれる人たちがいる。三奇人ともいう。林子平、高山彦九郎、蒲生君平であるが、奇妙な人たちで、何をしようとしたのかわからぬというものであった。林子平は海国兵談で外国の軍艦の脅威を力説したから、今ならわかる。後二人はとなるが、高山彦九郎については、京都三条、京阪電鉄駅前にある彼の像、「何事のおわしますかは知らねども、ただ有難さにぞ、涙こぼるる」という歌で、御所の方向を向いて平伏している姿が残っている。彼の伝記を書いた人が解説で、「王を尊ばんとするには幕府を倒さねばならぬという戦乱的革命思想を持って」と書いている。大規模な農民一揆がおきたと聞くと、そこに駆け付け、これを討幕戦力にしようと努めた。このようなことが、奇人といわれた理由であった。しかし世は太平、何事もなく一生を終わる。そこのところを蒲生君平は「ただ泰平、恩沢の厚きによりて、自ら章句を持って、青吟に託す」と書いている。彼らは蘭学者前野良沢などと親交があり、外国のことも知っていた。偏狭な攘夷論者ではない。むしろ開明的であった。つまり、討幕開国論の原型であった。幕末の志士たちは、この三人を仰ぎ見ていたから、討幕論の原型はこのあたりにあるのである。
水戸藩の藤田東湖は藩主徳川斉昭の懐刀、この人物は攘夷論者だと思われているが、「なかなかそうではない」ともいわれ、ややあいまいと思われているが、討幕論については、終始一貫激烈なものを持っていた。土佐藩主山内容堂が「なにをすればよいのか」と聞くと「ご謀反が最上」と答えた。これには危険を感じて「先生酔って大言するか」とたしなめた。薩摩藩士の一人に、「自分は島津斉彬公に着目している。薩摩の軍隊で京都に上り、天皇を擁し、統一国家を作り全国に号令する」、「天子親政の実にして上がれば、自余の小問題はおのずから定まる」といった。「我が藩などは親藩だから、そういう意気込みはない」と嘆いた。藤田東湖の討幕論であるが、それを西郷隆盛が実現したことになる。
三岡八郎(坂本龍馬の推薦で新政府の会計官となり由利公正と改名・東京府知事・元越前藩士)は言う。「西洋流を勉強して、外国に対抗するために必要な武器艦船の費用を計算し、これが幕府にあるかどうかを調べると、幕府は貧乏なもので、とても出せない。これでは幕府を倒してしまわなければならないと知った」と。これは経済学から、討幕論を唱えたことになる。当時は三岡経済学などといわれていて、この延長の改革論が坂本龍馬の注目するところとなり、新政府への登用につながった。

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