小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、討幕寸前の開国攘夷

舞台は薩摩藩邸、今の同志社大学、幕府軍との戦争を控えて、薩摩の将兵が集まっている。大隊長の有馬藤太が西郷隆盛に質問をした。「中村の奴変なことを言う」というわけだ。中村とは「人切り半次郎」といわれた人物。剣の達人。西洋流の学問に詳しい学者が幕府に雇われると知ると、抜く手も見せずに切ったという伝説がある。この中村が、西郷の側近になっていた。

二人そろって岩倉具視に面会をした。このとき岩倉は「討幕の密勅」を朝廷に提出して採択させた。ただし彼が書いたのではない。玉松操という国学者が書いたものであった。それでも岩倉の功績にはなる。「この戦いが終わると、攘夷の準備をしなければならぬが、その手配はできているのか」という意味の質問であった。中村は「御前の口からそのような言葉を出されるべきではありません」といって、開国の方針を説明した。これを有馬藤太は「変なこと」というのである。つまりこの時期にあっても、薩摩の大隊長が討幕の後で攘夷のための戦争、つまりは外国軍と戦うものと信じていたのである。
西郷は言う。「あ、お前には言わなかったかね。言ったつもりじゃったが」。これは嘘である。こういって、相手のプライドを立てたのである。そのあと、開国の必要を説明して、相手は納得したという。
玉松操は「奸物、岩倉に諮られたり」、つまり、悪人岩倉に騙されたと怒って、政府から去った。この時期、説明して、はいそうですかというものではなかった。特に攘夷論を信じる武士の中には武術の達人が多かった。薩摩藩はすでに外国貿易をしていた。その藩士にしてこうだから、長州、土佐の藩士にはもっと強く攘夷意識が残っている。
こうした一種の烏合の衆をまとめて一点に集中させるのは、早く幕府からの攻撃が始まることであった。これに負けると、大量虐殺が待っている。水戸天狗党の乱で、幕府がどういう残虐な処刑を行ったかは、当時の武士たちはみな知っていたからである。戦いが始まると、攘夷、開国の議論は棚上げになる。とにかく幕府の戦力を撃破する、これが大目的であったから、手段を択ばぬ方法で、相手から攻めてくるように仕向けた。
これが、江戸藩邸の益満久之助に命じた江戸攪乱の手段であった。かなり非合法な部分があって、批判が出てくるが、やむを得ない。ついに幕府側が怒って、「討薩表」つまり、薩摩を討伐するための宣言を出した。徳川将軍慶喜が指揮を執ったのではない。最上級の旗本、竹中丹後の守が総司令官になって攻めてきた。戦国時代の竹中半兵衛の子孫であった。約三倍の兵力を撃破したが、簡単に勝てるものではなかった。援軍要請に対して「皆死ね。そのあとに援軍を送る」と答え、残りの数百人を率いて出ていったという。奇跡的に勝って、山崎まで幕府軍が後退した時、藤堂藩の大砲が幕府軍の上に落ち始め、大混乱の中で大阪まで敗走した。あと将軍は脱走、敗軍の将兵も散乱し、西日本は討幕勢力の支配下にはいった。ここで開国和親の方針をはっきりさせたのである。

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