小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論・続

西郷隆盛は開国論者か攘夷論者か。尊王攘夷対開国佐幕の対立で明治維新が進行していくという一般的な常識からすると、彼の残した文章から見ると、どうもはっきりしない。それでは、そういうあいまいな人か、そうではない。ならば何か。ここから話が始まる。
彼の若いころ、潘主島津斉彬に引き立てられて、そば近く使えることができた。本来なら、そばにもよれない低い身分であった。「お前はいつも水戸のご老公のところに使いして、ご老公の開国、攘夷についてのご意見をうかがっていると思うが、どう思うか」という質問であった。(現代文に直しています)。
「それはもう、決まっています」。
「攘夷をするということか。国を閉ざすということか」
「それには間違いありません」
「まだその程度のことか」
ここで、西郷隆盛、当時の吉之助は、何か深いわけがあるのではないかと考えたという。考えていきつく先はどこだろうか。
水戸のご老公・徳川斉昭を補佐する人物は、藤田東湖は尊王攘夷論の大先輩で、「アメリカが攻めてきたら、息子を先頭に立てて、討ち死にさせます」などといっていたが、「なかなかそうではない」と、この文章を書いた人物が言う。
「なかなかそうではないのならどうなのか」ということになるが、大橋とつ庵という人物(坂下門外の変を起こした)が、攘夷戦に立ち上がってくれと誘いに来た時、「今はその時期ではない」と断った。大橋は「死ぬ死ぬといって死んだ人はいない」と、軽蔑した。
時の老中阿部正弘(幕府政治の最高指導者)が藤田に、攘夷か開国かを質問した。藤田は攘夷と答えた。阿部は「何たることを言うか」と怒った。藤田は友人に「それでどうすると聞いてきたら、策を言おうと思っていたが、突如怒ったので、この人はこの任にあらずと知り、以後なにもいわない」。
こういう話を総合すると、今戦っても負けるのだから、負けないような状態を作って、それからやるかやらないかを決める。そのためにはなにをするべきかを提案したいというところが本心であった。しかし、当時の大名、武士には、その理解に到達する人たちは少なかった。すぐに怒る。しかも権力と剣を持っている。だから分かり合えると見極めてから本心を言う。こうしないと、たとえ部下、家臣であっても危険が伴う。だから一見あいまいになる。水戸の殿様も、薩摩の殿様も、藤田東湖もそうであったので、西郷隆盛もその線で進んだのであった。それが討幕の寸前まで続く。

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