小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論) 干渉戦争が激烈な変化を起こした

1791年11月、立法議会が始まってすぐに、ジャコバンクラブで,レデレー(法服貴族、伯爵、高等法院判事)が、商業の繁栄、工業の全盛期を迎えたと発言した。これは重要なことで、市民革命によって、商工業が発展すること、その指導者は貴族的ブルジョアだということである。こういう穏やかなものを、激烈なものに変えた原因は外国の干渉戦争であった。
この年の8月25日ピルニッツ宣言が出された。二大強国、オーストリア帝国とプロイセン(プロシア)王国の皇帝と国王が、会見して、フランス国王ルイ16世の正当な権利を回復するために武力を行使するという意味であった。
バスチーユ占領以後、その時までフランス国王を取り巻いていた大貴族、ブロイ公爵、ポリニヤック公爵夫妻、コンデ大公などがあいつで亡命した。その多くが、オーストリアに迎え入れられた。国家は違っても、大貴族同士は古くからの付き合いがある。そのうえ、ヴェルサイユに留学してフランス語を学んだ時、貴族同士で世話になっている。
ここが当時のフランス王国の持つ特殊性であった。これは、フランス、オーストリア、プロイセン以外の国にとっては理解できないものである。わが日本では、日本から亡命して、温かく迎え入れられる場所が期待できるかどうかである。まして、武力でその地位を回復し於てやるよといってくれるものがいるかどうかである。ありえない。だから、心から同感できるものはない。
しかし、本気でフランス国王の権利を回復するという国家が出てきた。フランスに軍隊を侵入させるという。これに輪をかけて、二人の王弟が、「もし国王ルイ16世に危害を加えたら、パリを破壊する」との声明を出した。国王の弟のことで、プロヴァンス伯爵とアルトワ伯爵の名があり、ともに大領主であった。
これは余計な声明であり、戦争に関心のないパリ市民も危機感を持つものにしてしまった。「私は違います」といっても、家を壊される。
プロイセン軍の総司令官ブラウンシュヴァイク公爵は、「百年後、パリがセーヌ川の東にあったのか、西にあったのか、分からなくしてしまう」との声明を出した。これは当時有名になった言葉で、徹底的破壊を意味していた。こうなると、選挙権のない受動市民も、「自分には関係なし」とは言っておれない。ここで、この戦争が、国民的な総力戦になってきた。フランス革命が激烈になる出発点であった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA