小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論)立法議会で市民革命は完成した

オーストリア、プロイセンによる干渉戦争がはじまり、勝てば鷹揚に構えられるが、意外に連戦連敗、パリが占領される心配がでてきた。パリは破壊されるという。これで住民は上下に関係なく恐怖にさらされた。
軍隊に頼ることができるかというと、まだ旧体制の組織のままで、多少の改革は進められたが、将軍、将校は大貴族出身、下級貴族は下士官という体制に大きな変化はなかった。憲法では、人材の登用は平等の条件にすると決めている。しかしまだすべてにいきわたっているわけではない。
特に上層部が問題になる。上層部の大貴族、大領主は、自分の親族から亡命貴族を出している。夫婦で別れた場合、親子で別れた場合もある。亡命貴族は、オーストリア・プロイセン軍とともに行動し、戦争で勝った場合、そこに自分の領地があれば、支配者として帰ってきて、昔通りの権利を行使した。
こういう複雑な関係は、今まで例を見ないものであり、フランス軍が死にもの狂いで戦うという状況を作り出すことはなかった。そのうえ、王妃マリー・アントアネットが作戦計画をオーストリア皇帝に知らせていたこともあり、フランス軍は敗北を重ねた。
パリが危機に陥った段階で、立法議会における激烈な内紛が始まった。与党としてのフイヤンクラブと野党としてのジャコバンクラブの対立であった。両者が中央の無党派層の票を取り込んでの政争になった。
亡命貴族財産の没収、領主権の無償廃止が基本であった。当然、フイヤン派は反対、ジャコバン派系は賛成であった。
この政争が、1792年8月10日の「チュイルリー宮殿の衝撃事件」で決着し、フイヤン派の敗北、国王の投獄、立法議会の解散、国民公会の招集、普通選挙の実施、共和国の宣言、など劇的な変化をもたらした。当然、領主権の無償廃止が実現した。
この事実が重大な意味を、歴史解釈の上で持っている。つまり、まず立法議会の段階で市民革命が実現していた。それは領主権を残したままの市民革命であった。外国からの干渉戦争に勝つため、領主権の廃止が実行された。
つまりは、市民革命は領主権廃止を伴わないということである。これが日本史解釈の上で特に重要になってくる。この点はさらに詳しく説明しなければならない。

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