小林良彰(歴史学者東大卒)のフランス革命論 初期の改革は保守的

フランス革命といえばきわめて徹底的、急進的、民主主義的と思われている。これが世界中の常識であるが、この常識が間違いのもとだといいたい。初期のフランス革命は、妥協的、保守的な性格を維持している。それが約3年間続く。それでも革命は革命、市民革命に分類される。7月14日(1789年)は革命記念日である。
もともと、バスチーユ占領に至る騒乱は、財務総監ネッケルの追放に反対した大衆運動から始まった。革命が成功すると、ネッケルが復職した。彼は7月11日までその職にあった。つまり旧体制の財政担当者だあった。それが、わずかの期間追放されて、革命のおかげで戻ってきた。なんだかおかしいと思わないか。
国民衛兵兵司令官ラファイエット侯爵は、16歳でヴェルサイユ城にデビューし、その時、王妃マリーアントアネットがダンスを踊ってやろうといった。旧体制の、名門中の名門ではないか。
「民衆が蜂起し」と教科書では書かれているが、出てきた結果はこうなるので、この結果の部分を重大に考えなければならない。それは微温的な変化、大貴族の頂点に立っていた超保守的な部分を権力から退けて、強引な政策はとらせないようにした、これが結果であった。
したがって、「それならどうする」を巡って、革命派の中で議論が始まった。詳しい内容は私の本の中で紹介しているが、結果だけを言うと、ネッケルの提案は否定された。彼は大貴族の既得権益を残そうとした。これに反対する側からは、大貴族の役職手当は廃止し、教会財産を国有化し、これを担保とする新紙幣を発行して、財政赤字を解消するという案が提出された。これを提案した人が、タレイラン司教であった。これは仰天するような話であったが、実行された。新紙幣を手にしたものは、教会の土地、建物を買い取ることができる。こうして、教会、修道院が商人の手にわたり、ワインの貯蔵庫に変わったのである。こうして財政赤字は解消された。このタレイラン司教の父親は、タレイラン・ペリゴール大司教、公爵、国王の戴冠式で王冠をかぶせる役目を持ってた。夫婦で亡命したが、母親が「どうして、あの悪魔を生むことができたのか」と嘆いた。親子の断絶であり、革命であるが、このタレイラン司教は次男、足を故障して、馬に乗れない。貴族としてはそれだけで負い目がある。のちにナポレオンの下で外務大臣になり、その後も外務大臣になってウイーン会議で活躍した。
タレイラン司教の提案を基に、、国民議会財政委員会を代表して、ルクツー・ド・カントルーが全般的な財政改革案を提出して、可決された。この人物、ただものではない。

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