小林良彰(歴史学者東大卒)のフランス革命論 これが市民革命であるための理由は何か

フランス革命が市民革命であるための理由は何か。これを改めて問い直すとします。当然の答えが出るようで、意外にズバリといえないのです。世界中で盛んに主張されたことは、1793年、ジャコバン派独裁、領主権の無償廃止、農民の開放、民主主義の実現などです。この理論は右派、左派関係なく、またマルクス、エンゲルス、レーニンに至る社会科学でもそうであった。私はこれが間違っているという。

フランスの革命記念日は7月14日であり、これは1789年のことであった。7月14日を盛大に祝っておいて、基本的な成果は4年後のものであるというのは、自己矛盾も甚だしい。
7月14日の結果出てきたものは、国民議会、(のちに憲法制定議会になる)、の勝利、立法議会の選出、三権分立であるが、こうした制度上の変革が基本ではない。この時期、フイヤンクラブが支配し、ジャコバンクラブが野党の立場にあったことである。フイヤンクラブは、自由主義的大領主と最上層のブルジョアジーの党派であった。対するジャコバンクラブは、大領主の影響が少ないブルジョアジーの党派であった。そして、政争の中で、ジャコバンクラブの勢力が中間派の支持を得て、権力をとったこともある。
したがって、フランス革命は、7月14日に起こり、大領主の権力集中(ヴェルサイユに集まる)を撃破して、自由主義的大領主と上層ブルジョアジーの同盟に権力を移したことであったというべきである。
この同盟の中でどちらが指導権を維持し続けるか、見た目には貴族のように見えるが、実質はブルジョアジーの側にある。1792年3月10日フイヤン派の内閣が辞職し、ジャコバンクラブに連動する内閣が成立した。その時、閣僚名簿は国王の承認以前に議会に通知された。つまり国王の行政権すら独立していないので、「国王に行政権がある」という規定が有名無実になっている。この内閣の財務大臣クラヴィエールは銀行家であったが、フイヤン、ジャコバン両派に参加し、やがてフイヤン派を見捨てるのである。
このような進行を見ると、フランス革命はブルジョアジーの勝利を実現したものだと言い切ることができる。これが正確な答えになる。ただしブルジョアジーは表面に出ることをためらう傾向がある。また、革命の初期であればあるほど、何らかの同盟者と提携する。悪く言えば、使い捨てにする。その使い捨てにされた人たちが、ラファイエットであり、ロベスピエールであり、日本では西郷隆盛であった。ワシントンは逆に崇め奉られた。いずれにしても、一時的同盟者は、完全な仲間になるか、それとも使いすてかの運命をたどり、社会が安定した時、ブルジョアジーの勝利が実現される。これが市民各目の結果である。

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