小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 廃藩置県は第2の市民革命

1871年7月14日、奇しくもフランス革命記念日の日、バステイーユ占領の日、廃藩置県が断行された。これが第2の市民革命となり、全国が商人支配の国家になった。それまでは、幕府の旧領地のみがそうであり、それは全国の収入の約4分の1で,700万石に相当した。基本的部分が関東に集中し、あとは天領として各地に散在した。これが新政府に没収されて、ここの支配者集団である旗本、御家人は静岡に移され、全体の収入は十分の一に圧縮された。もちろん、関東における居住権は、完全消滅であった。豪華を極めた旗本屋敷の消滅、これこそ革命というべきものであろう。天領の代官職は、旗本から任命されたものであった。今後は新政府からの任命に変わった。武士ではあったが、藩主からの任命ではない。そこが、旧時代とは違うところ。
ところが、幕府領以外の土地では、何事も変わっていなかった。大名(殿様)が頂点にいて、家老をはじめとした重臣、重役の上級武士が支配し、中級武士が管理職、下級武士が下級の役職についていた。農、工、商には権力がない。つまり、近代国家と前近代国家の併存、これが約4年間続いた。
これでは、改革が不十分であろうという意見が出てくる。財政を担当した井上薫は、「大名の財政をとる必要」について強調した。しかし、財政をとる、権力をとると言い出すと、武力による抵抗に出会う。それを撃破する武力は、新政府にはない。加えて、新政府の官僚の豪奢に対する批判が出始めていた。そんな人間のために、命がけで協力するものがいるのか。
ここで、新政府は西郷隆盛に協力を求めることになった。長州の木戸、土佐の板垣を代表者として、三藩の藩兵を集めて中央政府の軍隊とし、これを各地の鎮台に駐屯させた。どこかで武士階級の反乱がおきた場合、それを鎮圧する構えであった。
中央政府では、この三人に加え、大隈重信の4人が参議として、最高指導部を構成した。
この人選、重要なところは、大隈重信の人選であった。この意味を知る人は少ない。ただし、先入観を抜きにすれば容易に理解できる。彼は薩摩、長州、土佐の藩兵に基盤を持たない。つまりは、この段階で、武士階級の代表者ではない。西郷隆盛周辺の武士たちは、大隈を嫌っていた。西郷は手紙の中で「この度は俗吏もぬれねずみのようになり愉快」と書いた。そのあと、「しかし何分選別がうまくいかなかないので残念」というような文章を書いた。つまり、大隈を一時排除したが、巻き返しにあって、自分と対等の立場に立つことを認めたという。
これは何を意味しているか。大隈が大商人の集団から支持されていることを示している。つまり、武力ではなく、資本の力なのである。このころになると、大隈は三井の大番頭三野村利左エ門と親密になり、「みのり、みのり」と呼んでいたが、みのりもまた常に大隈亭に詰めて、関係を深めた。最初に西郷が関係をつけた三井が、大隈に乗り換えたということである。
それにしても1対3ではないかと思うが、大隈に言わせると、西郷、板垣は「戦争の話ばかりして、印鑑をお前に任せるというので」実務は自分の判断で進行したという。これが重要なところ、経済界と政府の関係は大隈重信の判断で仕切られたことになる。こうして、大商人の勢力と、3藩兵の武力の同盟で、廃藩置県を断行した。反乱は起きなかった。
この事件の意味を言うと、打撃の目標は、全国の収入の約4分の3を占める大名領、ここを支配している武士集団、西洋流にいうと、貴族階級による土地の集団所有、この権力を消滅させることに尽きる。攻撃する側は、大商人を代表する官僚と、三藩の下級武士の集団だと定義できる。下級武士一般ではない。これを間違えてはいけない。そうでないと、「下級武士革命論」などという、でたらめな誤解につながる。ほんのわずかな、特別な勢力が協力したのだ。薩、長の2藩は、関ヶ原以来、長年の冷遇に対する恨みがある。土佐の下級武士は、長年差別を続けられた上級武士への恨みがある。そういう原動力が中央政府支持への原動力になる。他藩の下級武士にはそれがない。だから、武士一般ではない。
そこで、この勢力で全国の大名領を廃止することは、商人勢力による全国統一になり、征服型の市民革命になる。市民革命といえば下からだけではないかと反論する人もいるだろうが、フランス革命で、周辺諸国を占領した時、北イタリア、西ドイツでそのモデルが作られている。アメリカ南北戦争でも、南部諸州で独立国家を作った時期がある。この時は、古代ローマ帝国のような前近代国家が出現した。それを北側が撃破、占領して、市民革命の完成に導いた。廃藩置県はこういうものの、無血革命だと思えばよい。無血だから名誉革命といってもよい。

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