恐怖政治はなぜ起きたか ジロンド派の反乱、これを鎮圧した派遣委員

6月ジロンド派は追放された。しかし大多数の議員は自宅軟禁程度で、これなら恐怖政治にはならない。やがて数十人の議員が脱走して郷里に帰り、そこで反乱を組織した。これを「連邦派」の反乱ともいう。ジロンド派が連邦制を主張したからである。マルセイユ、リヨン、ボルドー,ナントなど主要都市というようになったが参加したから、これは一大脅威になった。政府はすぐに派遣委員に全権力をあたえて、鎮圧に向かわせた。これも年末までにほぼ成功した。この時、派遣委員たちが大量虐殺を実行した。大砲刑、溺死刑などの名が残っている。彼らのことをテロリストというようになった。ついでながら、フランス語ではテロのことを「テルール」といい、恐怖政治もこの言葉の日本語訳である。
これら派遣委員には山岳派も平原派もいたので、テロは山岳派のものというわけにはいかない。なぜここまでこじれたのか。ジロンド派はなにをめぐって命がけで抵抗したのか。それは、「累進強制公債」を受け入れることができなかったからである。その内容を要約しよう。財政破綻、戦費調達のため、一年間だけ金持ちは我慢して、累進税を払い上限を中産階級の上程度にとどめる。それ以上の年収を公債のかたちで政府に収めるというものであった。実際には、公債台帳に登録するというものであった。これが返してもらえるのか、事実上の没収になるのかは誰にも分らない。しかし戦争に負けてすべてを失うよりは良いではないか、というのが政府の論理であった。平原派についたブルジョアジーはこれでよいとした。ジロンド派の側の人々は絶対に容認できなかった。これが財界、ブルジョアジーの分裂を作り出した。この背景をさらに分析すると、業種や立場によって、之でも得をする立場と、丸々損をする立場に分かれるが、今それを詳しく分析するだけの紙面はない。こうして、これは一種のブルジョアジーの共食いになった。
こうした共食いはこんごの世界史に登場してくる。もうひとつ、このテロリスト議員には、収賄、略奪、腐敗、汚職の性格が目立っていた。なかには、下層出身で、帰ってきたときには貴婦人を愛人にしていた者もいた。
こうして、この局面については、フランス革命は評判が悪いのである。その中にあって、ロベスピエールは「腐敗しない人」というあだ名をもらっていた。このあたりが、テルミドールの反革命に結びついていく。

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