恐怖政治はなぜ起きたか 続

ジロンド派追放が実現しても、まだ恐怖政治は始まらなかった。公安委員会も「眠っている」委員会だとマラーがからかったほどであった。9月5日の事件、これが「恐怖政治が日程に上った」とあるフランス革命史家が書いたが、その意見はあまり活かされていない。この事件、正確に伝えた概説書は見当たらないので、すこし詳述します。フランス軍は国境で敗北を重ねた。ジロンド派の反乱でリヨン、マルセイユ、ボルドーなど主な地方都市は反政府側になった。西部のヴァンデー地方で、王党派の反乱が起こり、それに農民が合流して、パリ目指して攻めてきた。これでは物流が途絶える。それを見越して、買い占め、売り惜しみが進む。ついに穀物が店頭に出なくなり、パン屋はパンを焼けなくなり、主婦は家族に食べさせられなくなった。特に貧困層にしわよせがきて、飢え死に瀕した大群が出現した。この階層を支持者に持って政治指導者になったものが、「アンラジェー」という。怒り狂ったものという意味である。議員の中にはいない。
この指導者たちに率いられて、大群衆が議会・国民公会に向かった。今までになかった現象としては、包丁を持った女性の大群が、クレール・ラコンブという美人女優の指導者とともに、赤い三角帽子をかぶうて議事堂の中へ入ってきたことであった。制止しようとした何人かが刺された。彼女らが議員のそばに座り込む。その力を背景に、ラコンブが議長を押しのけて演説をした。当日の持ち回り議長がロベスピエールであった。しかしこの状況の下で、彼も指導力は発揮できない。彼女の演説の内容が、恐怖政治の実行を要求するものであった。しかし議員は誰も賛成できない。硬直状態に入ったところで、ダントンが賛成を口にした。後ごく少数のコルドリェクラブ出身の議員が賛成した。これで流れが変わって、賛成多数となり、議長が代表として成立を宣言した。
そうすると、腹はともかく、ダントンが提案し、ロベスピエールが宣言したことになる。また、これを貧困者の指導者は大義名分に使う。こうしてこの二人が恐怖政治の指導者として、後世に伝えられたのである。実際は、大衆運動の圧力に屈して、一時的に譲歩した政策であった。ただし、権力を明け渡したのではない。ここが重要なところである。

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