恐怖政治を学ぶなら、もっと平原派を知るべきである

前回の続きであるが、私が出てくるまでのフランス革命史は、いわゆるジロンド派対ジャコバン派の対立で歴史を語っていたのである。それ以外はないという態度で語る人、もうひとつは、あることは認めても、どうせくだらないもので無視するに足りるというものであった。つまり中間派は受動的なもので、「ついてこい」といわれる類のものであり、決定的役割は能動的なもの、すなわち、左右の両派閥でなければならぬという態度であった。
しかし、最後まで無傷で残ったものは、中間派であったので、この本質を知らずして、フランス革命を理解することはできないはずである。その観点から、平原派議員を調べ始めたが、こういう研究をしたのも世界では初めてであった。
まず、バラ子爵から始めよう。バラスとも発音する。アメリカにコーキー・バラスというダンスの名手がいる。だからここではバラスにしておこう。南フランスの中流の貴族、フランス革命以前、時の海軍大臣の部屋で、大臣の頭を本でたたいた。その後、インドへ派遣され、イギリス軍とたたかった。帰国して、国民公会の議員となり、中間派、平原派として、目立たない存在であった。
マルセイユでいわゆるジロンド派の反乱があり、この地域が反政府勢力に支配された。すぐ近くのツーロン軍港がイギリス海軍に占領された。これでは南フランスを経由する輸出入が途絶してしまう。フランス国家としての死活問題になった。この時、国民公会から、バラスが派遣委員として、全権力を委任された。彼の指揮する軍隊がマルセイユを鎮圧した。つぎにツーロン奪回に向かい、ここではイギリス海軍との砲撃戦が主体になった。この時、下級将校であったナポレオン・ボナパルトを引き立てて、砲兵司令官とし、その活躍によってイギリス海軍を追い出した。これはその時のフランスにとって、最大の功績になった。後世、これはナポレオンの功績として語り伝えられるが、当時は、バラスの功績と思われた。
バラスは最大の名誉に包まれてパリに凱旋してくる。ところがである。彼は最大級の富豪になっていた。その巨万の富は、賄賂と横領によって作られたといわれた。死刑になるべき人間から賄賂をとって助命し、軍隊につぎ込まれた資金の一部を私物化した。
ウヴラールという政商、御用商人、当時は、フル二スール・オー・ザルメー(軍隊に対する供給者)といわれたものだが、これと組んだ腐敗汚職もひどいものであった。さらに、毎日のように繰り返される夜の豪遊が有名になった。自分が愛人にした貴婦人を、妊娠中に、この御用商人に下げ渡したというのも話題になった。「背徳」という字がついて語られる人物であった。
ロベスピエールが公務員の腐敗粛清を主張した時、このバラスは真っ先に該当するものであった。そこで、テルミドールの反革命の日、ロベスピエールが市会議事堂にこもり、ジャコバンクラブの群衆に守られていた時、少数の兵力を動員して、群衆をすり抜け、急襲を加えてロベスピエールを銃撃した。これでジャコバンクラブは全滅した。
こうなると、バラスは二度の勝利を実現したものとして、最高の英雄になった。その延長として、総裁政府の事実上のトップになり、「バラスの王」といわれた。ナポレオンのクーデターによってその職を追われるが、巨万の富はそのままであった。彼の相棒のウヴラールはナポレオンの下でもビジネスを続けた。ナポレオンが失脚しても、妻が貴婦人であるから、バラスの子供を育てながら、ブルジョア的貴族として社会の上層にとどまった。
バラスを基準にしてみると、フランス革命とはこの程度のものであったのかとも思われる。旧体制、アンシャン・レジームとは、バラスが頭をたたいた海軍大臣(大貴族)が国王直属で支配する社会、新時代は、旧体制の変わり者、時代劇でいうと旗本退屈男のようなものが、商人、日本の町人、を引き立てて、新時代の支配者になる。
この子孫が現代でも、ブルジョア的貴族、貴族的ブルジョアとして支配者の集団を形成している。このことは日本人のほとんどが知らない。しかしこれが事実なのであるから、これを基準にして明治維新と比較するべきであると私は言う。
ただ、バラスはいかにも不道徳であるから、だれもこの人物について語りたくないのである。そういうことも歴史解釈をゆがめてしまう理由になるのかもしれない。これを思うとため息が出る。

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