明治、大正、昭和と続く士魂商才

明治維新前後の士魂商才について書きましたが、この流れは昭和の半ばまで続きます。誰もが知っていいるようで、意外に知らないのです。
例えば、平民宰相原敬が、家老の家柄で、上級武士の家系であることを知っていますか。平民どころか殿様に準ずる生まれでしょう。なぜ平民と称されたか、それは「爵位」と辞退したからです。この人がなぜ商才で取り上げられるか、それは「当主古河潤吉が病弱なので、経営を私が見た」と書いているからです。古河とは、だれでも知っている、古河
財閥のこと、足尾銅山、富士電機で知られています。
ついでながら、富士電機、これはドイツのジーメンス(シーメンス)と資本提携をして、その技術を導入したもの、長い間、筆頭株主でもあったが、このジーメンスも、ドイツの貴族ヴェルナーフォン・ジーメンスが設立したもの、つまり、日独両国の士魂商才が手を結んだといえる。富士通はこの子会社としてできたもの。
同じく、銅を基本にした財閥に、住友がある。二代目の理事、伊庭貞剛が代官の家系出身である。つまり、中、下級武士というところ、そのうえに立つ住友家の主人の人脈に上級公家西園寺公望がいる。住友家と縁組した。西園寺500石といわれたから、実質上級武士の地位にある。しかも天皇家と姻戚関係にある。首相を二度務め、昭和初期の激動期には、次期首相を天皇に助言する役割を担っていた。
陸奥宗光であるが、元の名を伊達小次郎という。紀州藩の上級武士の家に生まれ、、京都では三井の隠密になった。つまり、忍術の心得もあった。勝海舟の作った海軍操練所に入った。長崎で海援隊に入り、「武士を捨てても食っていけるのは俺と彼だけ」坂本龍馬に言わせたから、商才は見抜かれていたのだろう。しかし士魂も強かった。海援隊の船が沈没した事件で、紀州藩の重臣を襲撃した。「すごいいやつ」と皆におそれられた。西郷隆盛に同感し、西南戦争に呼応して挙兵しようとして、逮捕投獄された。その後、伊藤博文の尽力で出獄、古川市兵衛の足尾銅山経営に協力、自分の次男潤吉を養子に出した。古川市兵衛は早く死ぬから、彼が、その事業の代表者になった。その時、原敬を見込んで、経営者として引き入れた。外務大臣になるが、「カミソリ大臣」といわれ、実力は抜群であった。
三井財閥でも、益田孝が三井物産の経営で成功し、三井財閥の指導者になった。彼は幕臣、幕府消滅により失業、通訳をしていたが、井上薫と協力して、商事会社を三井の中に設立した。井上が大蔵大輔(今の財務次官)に戻ると、経営を一手に引き受けた。山形有朋、伊藤博文と、北海道で馬に乗って、疾走した。「なかなかうまい」とほめると、「これでも幕府の騎兵の頭でしたから」といったらしい、
三井物産が三池炭鉱を買収した時、鉱山技師の団琢磨を引き立てた。団も中級武士の出身、はじめ藩主に随行して欧米視察、途中でアメリカに留まり学問を収め帰国したというから、封建主義から出発して、個人主義になったような人物である。
昭和初期、三井合名理事長、日本経済連盟、工業倶楽部、を設立して、指導者になった。衆議院で労働組合法案が成立した時、貴族院でこれを握りつぶすことに指導権を発揮した。
暗殺の脅威が迫っていた。危ないから、裏門を使ってくれという頼みに対した、「自分は何も悪いことはしていないから、必要がない」といって正門から出入りした。すれ違いざま、一発の銃弾を撃ち込まれた。「うむ、やったな」といって倒れたという。これも士魂といえるだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA