明治政府最初の一年間は関西財界に支持されていた、小林良彰の歴史観

討幕戦力は挙げて江戸を目指した。京都に残ったのは留守政府扱い、前線に金を送ることだけが期待された。そこで、後世の歴史家は、この段階の新政府の性格について、多くの注意を払うことがない。これがまた歴史解釈の誤解につながるものになる。
戦争が終わると、武士たちは故郷に凱旋した。こういえば聞こえはよいが、「勝った、勝った」の喜びはよいとして、その後は何も良いことはないのである。勝利の果実は、京都に残った新政府官僚の手の中に入った。一般的傾向を言うと、故郷に帰ってもあまりよいことがない人たちが、中央に残った。特に長州藩が際立っている。身分が低く、故郷では上級武士に這いつくばらなければならない人、伊藤博文、山形有朋などで、桂小五郎(木戸孝允)でもまともな武士とはみなされていなかった。とても彼らが長州藩を代表する立場にあるとはみなされていない。
また、長男は故郷に帰りやすく、次男以下は中央にとどまりやすい。もともと、次男以下は、「厄介」といわれて、輝く場所がなかった。よそに言って成功すると、「厄介払い」と思われた。そのため、中央に残って成功すれば、「故郷に錦を飾って帰る」といわれ、そうでなければ、「二度とこの家の敷居をまたぐな」といわれて出されたものであった。この例で成功したものは、西郷従道、大山巌である。
さて、それにしても、この外れ物のような武士たちが作った新政府、だれに支持されて強力な力を持ったのか、「武士階級の支持ではない」。ズバリ、「関西財界」に支持されていたのである。京都、大阪、これが中心、ここの商人層は幕府権力に占領の形で支配されていた。京都所司代、大坂城代、各種奉行、これらが、譜代大名、旗本の役職になっていた。これが鳥羽伏見の戦いで吹き飛んだ。西日本の天領でも同じ。その瞬間に、地元の商人層の支配下に入った。
特に京都、大阪には巨大な商人がいた。「三都の大商人」といわれた三井、小野、島田、江戸と別子銅山に拠点を持つ住友、最大級の両替商といわれた天王寺屋五平衛、平野屋五平衛、彼らはこぞって新政府を支持した。
その協力関係の中で、個人的な結びつきも強くなった。薩摩藩士たちと三井、会計官由利公正と小野組、大隈重信(副会計官)と島田組、住友と土佐藩士(川田小一郎その他)たち、などなど多くの実例を挙げることができる。
だから、これが新政府の基礎になり、フランス革命初期のパリ市と同じ状態になったのである。

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