明治2年西郷隆盛、由利公正の引退で重大変化が。ことの本質は何か。

出来たばかりの明治新政府、早くも、第1回の粛清を始めた。どの新政権でもこのようなことが起きる。しかしこの事件、市民革命の本質に深くかかわるものであった。重大な問題であったが、表向きは穏やかな変化のように処理された。
つまり、本人が自発的に引退したかのように、世間に示したのである。だから今,
私が説明しようとしても、なかなか難しい。由利公正から始めよう。彼のもとの名は三岡八郎という。越前藩士、藩の財政改革に貢献したが、薩摩、長州に同情的な意見を持っていたので、投獄されていた。坂本龍馬が新政府の構想を立案した時、財政、経済を知るものがいないので、これが新政府の弱点だといい、三岡を推薦した。当時彼の持論が「三岡経済学」といわれ、大いに期待された。
彼は新政府の会計官になり、太政官札を発行して、新政府の必要経費を賄った。そこまではよかったのだが、その紙幣には実物の裏付けがない。価値が下がり、その取引を拒否するものが出て、信用が失墜した。そこで、これの強制流通を目指すか、時価流通を認めるかの議論が行われ、由利、西郷は強制流通、大隈重信らは時価流通を主張した。
大隈重信の主張が通り、由利は辞職した。前後して、西郷隆盛も薩摩に帰った。さて、これで京都の新政府はどうなったかである。ズバリ定義すると、商人の政府になってしまったのである。武士的要素は消えた。武士階級の集団的要求は、中央政府に反映されることがない。
確かに、新政府の官僚は武士出身であった。しかしもう武士には足場がない。そういう人たちが残った。特に長州出身者がそうであった。桂(木戸)、山県、伊藤ともに、まともな武士ではない。大隈は佐賀藩士の代表ではない。大村益次郎に至っては、武士の資格すらない。武士に支持基盤がないとすれば、どこに支持基盤を持つか、それは商人層以外にはない。
だからそれぞれ気の合った商人と結びついていく。ただしこの関係、必ずしも固定的ではない。東京遷都があったからである。大隈重信は、はじめ、住友、鴻池と密接であったが、東京に移ると、三井の大番頭三野村利左エ門と結びつき「みのり、みのり」といって、ひいきにしたという。みのりも、常に大隈邸に入り込み、大隈が留守中であっても上がり込み、大隈の取り巻きを相手にして、「あみだくじ」を引かせ、ご褒美を出していたという。
やがて、長州藩出身の井上薫が三井の顧問のような役割を果たした。西郷隆盛が井上に「三井の番頭さん」と呼びかけたほどであった。そのころ、大隈は島田組(三井と並ぶ三都の大商人)と結び、井上が「島田は大隈さんの、ナニだったから」といった。こうした状況について、西郷隆盛は、月給だけではできないような贅沢をしていると批判している。つまり商人層と結びついて、腐敗、汚職をしているというのである。
こうして、明治元年の新政府は、薩摩、長州、土佐、などの下級武士と商人層の同盟の上に成り立ったが、明治二年の新政府は商人層の政府に純化された。
同じようなことはフランス革命でも起きている。バスチーユ占領からほぼ一年間は、まだ財務総監ネッケルの指導権のもとにあった。ネッケルは前時代の財務総監でもあった。だから、改革は進むようです済まない。貴族支配の性格が抵抗しつつ残っていた。ネッケルが辞職してスイスの帰り、これ以後本来のブルジョアジーの政策が始まった。
そういう意味でも似たところがある。

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