東京遷都がフランス革命のヴェルサイユ行進にそうとうする。

鳥羽伏見の戦いに勝つと、新政府は京都に設立された。しかし、まだ全国を支配したのではない。大ばっぱにいえば西日本、ここの天領と京都府だけ、幕府(徳川本家)の根拠地は関東平野であり、ここでは全く変化が起きていない。つまり革命の火ぶたは切ったが、完成はされていない。
いつ反撃されるかはわからないという恐怖はある。こういう場合、負けると、大量虐殺が待っている。勝った側もそれを知っているから、すぐに死に物狂いで東に向かった。京都の留守政府の最大の任務は、前線に軍資金を送り届けることであった。幸い、自発的献金に困ることはなかった。特に大阪商人は、幕府軍人から、「金は金なり、天下のおしかり(押し借り)なり」と称して、金を巻き上げられ、証文だけを残された直後のことで、幕府に対して恨み骨髄、新政府の太政官札での返却に感謝していたから、全面的な支持者になっていた。
フランス革命では、パリという最大都市が大貴族ラファイエット侯爵を国民衛兵司令官としてトップに押し上げ、その副官として大商人、銀行家が市政を支配した。ただし全国支配というわけではない。全国に対する命令は、国王の名の下に行われる。その国王は今まで通り、ヴェルサイユで大貴族の保守派に囲まれている。国民議会(三部会からの衣替え)もヴェルサイユにとどまり、そこで改革令を決議し、国王に回し、国王はいやいやながら署名した。これが改革令として全国に出された。しかし、大貴族の中には反撃の試みがあった。精鋭部隊として知られるフランドル連隊、これを呼び寄せ、残っている軍隊と共に反撃しようとした。つまりパリの再占領である。日本の「幕府軍の再編成、関ヶ原、大坂の陣の再現」に相当する。
フランスでは、ヴェルサイユ行進があり、国王一家が大貴族から切り離され、捕虜同然の状態でパリに連れてこられた。これ以後、国民議会の改革令は、自動的に国王の命令として、全国に通用することになる。
日本では、江戸城の開城、将軍の引退で、関東平野にまで新政府の命令が普及されるようになる。しかし彰義隊が寛永寺に立てこもったので、外国は、政府が二つできたと見た。これを応援すれば日本に干渉戦争を起こすことができる。こういう意見もあり得た。そこで素早く鎮圧しなければならない。
その時、西郷隆盛はなぜか動きが遅くなった。理由はさておき、大村益次郎と大隈重信、この二人が、指導権を握って、一日で討伐した。西郷隆盛は官職を辞して、頭をそり、「入道先生」などと呼ばれる状態で、北越戦争に同行する。敗北した庄内藩に対して、寛大な処分をを下した。官位がなくても、影響力はあった。庄内藩氏は恩義を感じ、のちに「南洲翁遺訓集」を残すことになる。
会津戦争が終わり、ほぼ全土が新政府のものになったところで、「新政府の財政的基礎はどこにあるか」が突き付けられた問題になる。しかしこれは西郷隆盛とは関係のないことになる。

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