続 

ナポレオンは出獄してからしばらくは失業状態であった。しかし、1776年にはイタリア方面軍の司令官になって、遠征し、成功した。彼の軍事的な才能、ツーロン軍港時代の上官・派遣委員バラ・バラ引き立てがてがあった。しかしもう一つの要素はあまり人々が取り上げないものである。彼のイタリア語の名前は、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテである。イタリアでは由緒正しい貴族であって、フランスでの扱いとは違ってくる。この名前「良いところのナポリ」さんという意味になる。ジョークの様な話なるが、民心掌握には強力な武器になる。フランスに行って出世した貴族が帰ってきたという感じになって、封建支配者以外は好意を持つ。ここに市民革命を武力でうえからひろめたという意味になる。こういう市民革命の実現のしかたがありうることも、理論化の過程で考慮するべきである。
その前にはヴァンデミエール将軍と言われるようになる。この名は「革命暦」からくるもので、1795年その月に王党派貴族つまり旧上流貴族・名門貴族が反乱を起こし、もうすこしで勝つかもしれないというとこにまで攻めてきたという事件であった。仮にもしこれが成功していたとすると、フランスには旧体制、絶対主義が復活したであろうというものであった。政府の側には、総裁政府のトップにバラがいて、副官にナポレオンがなり、反乱を鎮圧した。ナポレオンはますます成功したが、アンギアン公爵は銃殺された。コンデ大公の孫、フランス王国の最高の貴族、ヴェルサイユ城を取り仕切っていた人物の唯一の孫で、これをもってコンデ家の家系は絶えたというので、フランス人にとっては一大事件になった。だからナポレオンのことを悪く言う人たちもまた、フランスには一定数いる。これもまた、市民革命の一つの側面である。

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