西郷隆盛以後士魂商才も変質する

士魂商才はずっと続くように思われるが、重要なところで、変質していくのである。五代友厚は大資産家だと思われたのに、死後整理してみると、私財をほとんど残さなかった。つまり事業は、私財を蓄えるのではなく、国家、社会の発展のために行うものという気概があった。
この気質が西郷隆盛の気質に一致していた。「子孫のために、美田を買わず」、「命もいらぬ、名もいらぬ。金もいらぬものは始末に困る者なり」、この困る者でなければ、天下の大事は成し遂げられないといっている。
彼と協力した山岡鉄舟は、「子爵」という爵位を与えるという政府申し出に、「食うてねて、働きもせぬご褒美に、またも華族(蚊族)となりて、血を吸う」との返事をして断った。爵位にはお金が付くからである。つまり金儲けを避ける気質があった。しかし、幕臣の木村という人物が、パン屋をはじめて成功すると、木村屋を言う屋号を書いてやり、明治天皇に献上して、ほめてもらい、「キムラヤのアンパン」を広めてやった。一種の士魂商才であろう。
勝海舟になると、子爵を与えるといわれると、「今までは、人並の身と思いしが、五尺にたらぬ、子爵(四尺)なりとは」と、抗議の歌を詠んだ。五尺は当時の平均身長、「俺の功績をなめるな」という思いであった。そこで、一つ上の伯爵になった。当然、「名誉も金も」上がる。ここで、西郷隆盛とは食い違ってくる。しかし、だれも「勝海舟に士魂がないとは言わないだろう」。士魂の内容が変わっていく。資本主義が安定するから、「金も名誉もある方がよい」という風潮になる。したがって、士魂を持ちながら、財閥の中枢にいることになる。これが団琢磨の姿であった。
団琢磨を襲撃した人物は「財閥権勢に奢れども、国を憂うる力なし」という昭和維新運動の歌に沿って、「財閥の最大のものは三井であり、三井の中心が団男爵であったから」撃ったと供述した。
このように士魂も変質するようだ。

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