討幕戦の西郷隆盛はフランス革命のラファイエットに似ている

討幕戦の出発点では、西郷隆盛が討幕戦力と商人層の同盟を、一身に体現した。フランス革命において、1789年7月14日、バスチーユ占領の直後、ラファイエットは国民衛兵司令官となり、フランス革命の軍事力を代表する存在になった。
国民衛兵とはフランス王国の軍隊とは別物であって、正規の軍隊はヴェルサイユに大軍をなして駐屯していた。その分隊として、フランス衛兵というのがパリ市内に駐屯していたが、これが反乱を起こして民衆の側についた。砲兵隊もこれに合流した。だからバスチーユが陥落した。これは要塞監獄、堀に囲まれ、高い石造りの外壁、上に砲台が据え付けられている。民衆が攻撃したくらいでは、陥落しない。砲兵隊が発砲の構えを見せたので、降伏した。
だから、国民議会議長ラ・ロシュフーコー・リヤンクール公爵が国王ルイ16世に「陛下、バスチーユが陥落しました」、「何、それは暴動だろう」、「いや、革命です」と返事をしたのである。
普通のフランス革命の概説書では、民衆の暴動、蜂起が決定的な要因であるかのように書いているが、これはナンセンスであって、軍隊の合流があって初めて革命になった。下士官、兵士、が動く。下級将校は動揺、上級将校は国王の命令通り動こうとする。ナポレオンはどのあたりにいたかというと、中立であった。
こうした形で、勝利した武装勢力が国民衛兵を作るとなれば、下士官、下級将校の発言力は大きい。そして彼らは貴族であった。田舎に帰れば、大きな邸宅があり、村一番の大地主であり、幕末の日本に例えると郷士であった。つまりこの時代、平民の指揮する軍隊はあり得なかったのだ。そこで新しい国民衛兵も、その長に貴族のラファイエットを担ぎだした。
ラファイエットは侯爵、マルキ・ド・ラファイエットという。大貴族の序列では、大公、公爵、侯爵となる。大公はプランス(英語でプリンス)と発音されるが、皇太子ではなく、赤の他人で、最大の領地所有者、例えばというと、現在の、モナコ大公、ルクセンブルグ大公だと思えばよい。この二人は当時ヴェルサイユにも来ていた。ランベスク大公というのは、ロレーヌの大領主、パリを攻撃した司令官であった。そうすると、見た目にはバスチーユ占領はランベスク大公と、ラファイエット侯爵の対決のようにも見える。どちらも自分の郷里に帰ると、殿様である。
これだけ見ると、西郷隆盛は役不足のように見える。小松帯刀が生きていたなら、ラファイエットに近い。いや、島津斉彬が薩摩軍を指揮していたら、まさにラファイエット侯爵と同じといえよう。そしてこれは、藤田東湖が夢見ていた姿であった。
ここまでは貴族の部分であって、ブルジョアジーの部分がこれから入る。パリの騒乱が始まると、ルクツーという商人、貿易業者が兵営に出かけて、月給を保証するといった。こうして一大隊丸ごと反乱の側に引き付けた。ボスカリという大商人は自分の地区で住民を武装させ戦闘に参加した。
だから、パリの反乱はブルジョアジーが組織したものともいえる。それを反映して、ラファイエットの副官に、ぺルゴなどの銀行家の名が出てくる。この人物、のちにナポレオンを担いでクーデターを起こさせる。
つまり、ラファイエットの権力は、武装勢力と商人銀行家の一時的同盟であり、それを彼が一身に体現したものであった。日本の明治維新には民衆の部分がないという人がいるが、これも極論で、薩摩の郷士は半ば農民であり、長州の奇兵隊は、武士と平民の混合であった。いままでの人々の議論は、フランスについては民衆の部分だけをすべてとし、日本については武士だけの要素をすべてとして、極論と極論を対立させてきたのであった。
結論を言えば、西郷隆盛とラファイエットは同じであって、身分、家柄は違うということである。

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