討幕戦力が古代的権威を頼りにした結果は。上級公家との暗闘。

討幕戦で勝つことは、薩摩、長州の戦力で実現可能であった。戦争のさなか、朝廷では、多くの公家衆が、「幕府と薩長の私戦」であると騒いでいた。つまり、朝廷は関係ないというのである。もし、幕府が勝てばどうなるか。これは歴上の多くの事件で想像できる。だから、距離を置いてみていたのである。
朝廷の主流は討幕派ではなかった。それでも、勝ってしまえば勝者の側に立ち、そのうえに立って、指導権を発揮しようとする。もっとも重要なことは、天皇を独り占めして、新官僚を遠ざけ、その間に立って利益をせしめようとする。都合の良いことに、千数百年の伝統があり、それを主張すればよい。その最たるものは、天皇個人と面談させないというものである。簾の奥に隔離し、上級公家が取次役を独占する。昔から言う「君側の奸」になるのである。
この体制がしばらく続いた。上級公家はそれを死守しようとし、新官僚たちはそれをはぎ取ろうとする。しかし、一気にはぎ取ることはできない。全国に命令を出すとき、その命令が、西郷、桂、板垣の名で出されると、だれもが「どこの馬の骨か」とあざ笑うだろう。当時はそんなもの。だから、桂、板垣は、元の名を捨ててまで、改名した。
だから妥協しながらやっていく。ならば、三井、住友、鴻池の名を出してはどうか。これまた、最悪の結果になる。士農工商の意識が強い時代である。商人は最下位であるから、その命令には従わない、分をわきまえて、おとなしく儲けておればよということになる。
新政府官僚たちは、古いしきたりに妥協しながら、天皇個人だけを自分たちのトップに担ぎ上げようと画策した。
東京遷都が、その第一歩であった。面倒な公家集団を京都に置き去りにする。わずかな公家たちだけをつれて出る。これで、朝廷が約十万石の領主、中規模の大名という性格をはぎ取り、新政府官僚が囲い組むことになった。残された公家たちは、各藩の武士階級と同じ扱いになった。

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