辛亥革命は市民革命ではなかった。

1911年の辛亥革命は、市民革命にはならなかった。もし、孫文の率いる中華民国臨時政府が成功し、全中国を支配したならば、市民佳カウ明の成功といえるだろう。しかしそれは弾圧されて、権力は袁世凱の手に移った。袁世凱は満州人ではなく、台頭してきた漢人大地主の勢力を代表する存在であった。この系譜は、曽国藩、李鴻章、袁世凱と続いている。
清朝政府の統治機構の中で、動乱に乗じて、満州貴族の中に割り込み、妥協しながら、政権に近づいたものであった。土壇場で態度を翻し、満州貴族を政権から追放し、独裁権を握った。同時に、孫文の作った臨時政府もつぶした。
こうして、辛亥革命は、土地支配者の政府の中で、勢力後退をもたらしたものであり、その変化とは、異民族としての満州貴族から、漢民族の大地主への変化であった。これは、孫文の唱えていた「排満興漢」を実現したものではあったが、孫文の理想とは程遠いものであった。
その後、孫文は「三民主義」を唱えて、新たな革命像を模索した。しばらくは政治犯扱いで、各地を転々とした。彼を支えたものは、中国人とは限らず、日本人の実業家、政治家も参入した。九州の炭鉱業者、それと結ぶ政治運動の大物「頭山満」などがいた。本国では、海南東、広東の華僑商人宗耀如・宗子文親子は熱烈な支持者で、次女宋慶齢は、秘書になりり、孫文と結婚した。
だから、孫文が勝てば市民革命になるはずで、辛亥革命でできた政権はそれに敵対するものであった。

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