認知症予防のために頭をどう使うか

認知症予防には、頭を使うことが不可欠になる。「使わなくてもよいのだよ。一日中ぼーつとしていなさい」こういう忠告はあり得ない。問題はこれから先のことである、「どのように使うか]、これである。
今までやってきたことの延長で行く。これが、ごく最近までの常識であった。私もこれを信じていた。そこで、囲碁の趣味を復活し、この中で、できる限り上昇しようとした。4段から5段へ、さらに高段者への道を突き進む。80歳代の前半までこうしてきた。今では、うわてに出会うことがなくなった。
さらに、高段者へ、と思い始めた時、「待てよ」という声が聞こえた。「使い過ぎでボケるのではないか。特に、凶暴性を伴うボケに」。これは、理屈ではなく、体験的に出会った事から来るものであった、何人かの高段者がこの道をたどったのである。危険を感じて、碁の本を閉じた。
最近、認知症についての本を読んでいると、昔の努力の延長をしていると、使い過ぎによる脳細胞の死滅という問題に突き当たるという警告に出会った。その学説によると、昔の努力の過程で、脳細胞の酷使によって、一部死滅しているというのである。ふむふむと思った。つまり頭は、使えばつかう程よいというのではないのである。使いすぎると死ぬのである。「精神力で何とか」といっても、神経細胞が死んでいると、精神力で七とかといっても、空振りに終わる。この典型的な現象は、厚さ、寒さに対する抵抗力、適応能力である。これも、神経細胞の死滅により、「年が行くと厚さ、寒さに弱くなるのである。これをがんばれというのは、死ねというのと同じである。
過去の努力で一部死んでいる脳細胞、これを叱咤激励してどうなる。それよりは、まだ使っていなくて、潜在的能力として保全されているところを、老後に使うのはどうか。これがこの学説の提案であった。「ウーム。自分はどうしていたのだろうか」。改めて反省すると、とにかく、囲碁まっしぐらという老後であったという反省になった。これはだめだ。自分の学問体系をブログに書いている。これもだめだ。ほどほどにしておけ。
歌を歌っている。これはよいだろう。少年時代に止められたもの、その復活だ。ただ、気を付けなければならない。突撃精神で突っ込みすぎる。難しい歌、高度な歌にのめり込みすぎる。ほどほどにしなければ。今反省しているのこういうことです。日本人のほとんどが、思い当たるのではないですか。

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