これほど急性で劇症のがんがあるとは知らなかった。

末期がんの宣告を受けたのが4月19日、この日から、驚くほどの速さで、病状は進行しました。心の準備ができていないので、すべてが、後手、後手へと回りました。
この日は、自力でふろに入りました。これは当然のこと思いましたが、翌日は風呂に入れないから、タオルで体をふくだけにしました。次の日、なんとなく、紙おむつが必要になるのではないかと私が思い、買いこんできました。これで安心と思って、翌日の朝見ると、やはりそれでよかったお思う状態になりました。さらに、少量の出血がみられました。4月22日です。もう自力でトイレに行けなくなっているのです。
食事は、20日にリンゴ4分の1、牛乳半杯、次の日の同じ、22日は食べたものを吐いた。これは絶望的と思って、近所、友人の何人かに知らせて、最後の別れをしてもらった。
4月23日、夜間、早朝に大量出血があり、紙おむつでは吸収しきれなかった。立ち上がるから抱き起してくれと手を差し伸べたので、私も抱きかかえたところ、想像以上にぐにゃぐにゃになっているので、私がよろめき、二人で倒れ込みそうになった。かろうじて踏ん張って、事なきを得たが、これでは共倒れだと思った。
救急車を頼み、大学病院に迎えてもらった。病院では治療はできないよと念を押される。延命治療ははどうかといわれるから「それは望まない、これは病人本人の希望だという」。それなら点滴のみだといわれる。これで合意致達して、点滴を受ける。
そうすると、顔色が良くなり、食事もする、トイレにも行けるようになった。なんだか希望が出てきた。しかし先生はそうは言われない。「症状の進み具合に応じて、薬の量を増やしている」といわれる。介護保険認定の市役所職員が来て、「自力でトイレに行けますか」と尋ねると「はい行けます」という。しかし、その職員の方が。看護師さんが、「間もなく不可能になるでしょう」といったと知らせてくれました。事実そうなりました。こちらは希望的観測を持っているが、看護師さんは冷静に見ていることを感じました。
5月10日、近所の病院に転院しました。もう終末ケアのみで、治る希望はありません。しかしまだ食欲はある。上等の果物、フルーツジュース、すし、カレーライス、梅干しなどを注文します。梅干しだけは、お手製のものですが、その他は高額商品でした。例えばメロンひとつは、1万円のもの、ジュースは千疋屋のものでなければ飲まないなどといいます。(市販のジュースの数倍はする)。後から考えるとなんだかおかしいのですが、その時は「はい、はい」で、「ご無理ごもっとも」という心境でした。「とにかく楽しい思い出にしよう」、これだけです。
5月19日、床ずれがするので、マッサージをしてくれというので、1,2回していましたが、この日は、6,7回もしてくれという。多いなと思いましたが、その翌日、熟睡状態が続き、言葉は2,3かわす程度になる。5月24日、食事を拒否した。寝たきりになる。
6月1日薄目をあけるて度、。6月7日、目を開けることがない。問いかけは分かるようだが。昏睡状態と認識。6月9日、目を開けたが、私を認識したかどうか。
6月24日、もはや腕の静脈で点滴を入れる場所がなくなったので、足の太い静脈から点滴を入れるという病院の方針に従った。もはや、そばにいても何もできない。ただ見守るだけ。
7月5日、病院から知らせがあり、呼吸が乱れてきたという。駆けつけて見守る。看護師さんが「今、理想的な数値になりました」、といってくれた直後「あれ!」といって病室を飛び出した。機械の数値が、1,2,3、という調子で低下し、見る見るうちにゼロになりました。そのころ先生も駆けつけてくれて、「ご臨終です」といわれました。
死に顔はきれいでした。病院でも、「2階のマドンナ」などといわれていました。手を取って呼びかけましたが、若い時と同じでした。がんはやせ衰えると聞いていましたが、「ぜんぜんやせていない、若い時と同じ、もったいない」、「残念!」これが心からの叫びでした。これを亡き妻への追悼文にします。

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