碁は弱気でも勝てる。

2019年8月13日、4か月ぶりに、鎌倉山囲碁クラブに出席しました。4か月の空白があります。4月以来、碁のことは考える暇がありませんでした。妻の末期がん宣告、介護入院お見舞い、葬儀、後片付け、家事万端の独り立ち、目まぐるしい日々でありました。それでも、「倒れてはいけない」、「発病してはいけない」を最低ラインと心得て、生き延びてきました。
やっと心身ともに一段落したと思い、囲碁の仲間に会いに行きました。さっそく対戦です。行く前から、「今日はぼろ負け、何段分くらいの棋力低下かな」と、弱気の予想でした。「碁のことは考えたことがない。NHK囲碁トーナメントですらみていない。これでかてるわけはない」。
まずは到着順で、「私に7目置く人と対戦です」。下手相手とはいえ、私は弱くなっているはず。わずかなスキを突かれて負ける。気がかりになるのはこれだけ。ところが打っているうちに、今までにないほどの優勢となり、それを維持して、「数えるまでもありません」と相手に言わせました。
次に、4目置かせる相手と対戦です。4段程度の人、いきなり小競り合いになりました。日頃から、極めて強気の人です。私は引いて、引いての手を打ったつもりでした。情けない感じではありましたが、ふと気が付くと、その外側で相手の大石がとられ形になっている。そこで「ポン」と打つと、これで勝敗が決まってしまいました。
次は7段相当の人との対戦です。この人は、私が来るまではここのナンバーワンでした。囲碁教室も開いている。セミプロというところですか、その人に白を持って対戦する。なかなか勝てない、勝ったり、負けたりです。当然、今日は負けと決まっている。まあ、無様な負け方だけは避けたい、こう思って打ちました。ところがです、調子よく行って、大勝でした。時間が余ったので、もう一度打ちましょうとなって、打ちましたが、今度も私が優勢になり、相手がぼやき始めました。それを聞いて、もう一人の7段の人がやった来て、「なにか悲鳴が聞こえているよ」といって見に来ました。私も盤面を見て、「なんだか私が上達しているような感じ」と思いました。
帰り道、「これはいったい何だ」と思い返しました。4か月の空白を経て、一段くらい上達している。しかもこの空白の時期は、人生最大というくらいひどい目にあっている。知識という側面では、上達するはずがない。それでも上達しているとすれば、「心の持ちようか」。しかし、それも「禅の修行をしたのではない」。むしろ、心は妻を失って、動揺している。お世辞にも、悟りの境地とは程遠い。
「ならば何か」、こんなことを考えながら家に帰りました。家で家事をしながら、ふと気が付きました。
碁は戦略である。戦略は臆病から来る。西郷隆盛が一人の戦略家をそばにおいて、鳥羽伏見の戦いに臨んだ。会議の時に、地震が来た。その人物が真っ先に庭に逃げた。居並ぶ武将たちが、その臆病ぶりをあざ笑った。西郷はたしなめて、戦略家はこれが良いのだといった。NHKの囲碁を解説しているプロ棋士が、司会者の女性が、「もう一つ大きく開くのはどうでしょう」を言うと、「そこまで行く人はこのテレビに出られません」といった。つまり打ちすぎると負けるという意味である。「今日の私は、臆病になっているため、打ち過ぎがなかったのかもしれない。

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